冷えた茶を飲んだせいか、トイレに行きたくなった。
 急いで台から下ろしてもらい、走る。
 慌てていたので、居るはずのない人を見かけた気がしても確かめる余裕がなかった。

「ただいま戻りました」
 高らかに帰還の宣言が響き渡る。
 群集のざわめきに阻害されることなく、その声は闘技場に上がる選手達の耳にも届く。
「何やら面白いことが行われていると聞き及び、取り急ぎ帰路を駆けて参りました。私も参加させていただけませんか」
 言われて見れば、戦場でも洗い立てかと見まごうほど清潔感溢れる装束を纏う彼女の裾口や足元が、埃で白く染まっている。手には泥が跳ねた跡がそのまま残っており、髪もやや乱れていた。
「月英殿」
 劉備が驚き台から飛び降りる。
 月英は恭しく頭を垂れた。
「殿、月英ただいま戻りましてございます」
「無事の帰還、何より……しかし……」
 戸惑いを見せる劉備に、月英は華々しく微笑んだ。
「北方の制定、為して参りました。途中、この大会のことを聞き及び、是非にも参加いたしたく馳せ参じたのですが……間に合いませんでしたでしょうか」
 笑みを絶やさず、小首を傾げる月英は魅惑的だった。理知的な彼女が、こんな仕草を見せるのは珍しい。
「うむ……生憎、予選は……」
「某で宜しければ、代わりましょう」
 劉備の歯切れの悪い言葉に、王平が割って入った。
「これは王平殿」
「月英殿、某でよろしければ、決勝への権利お譲りいたしましょう」
「しかし、それでは……予選は終わってしまったのでしょう?」
 困惑した笑顔を劉備に向ける月英に、王平は快活に笑った。
「では、こういたしましょう。某と月英殿で改めて試合をし、勝った者が決勝に上がるということで」
「そんな……でも……よろしいのですか」
「よろしいも何も、某如きより、月英殿の武の方が大会に華を添えましょうぞ」
 茶番だ。
 趙雲は、勝ちを決めた後の清々しさが一気に吹き飛んでしまう不快感に顔を顰めた。
 諸葛亮が手を回したに違いない。
 苦々しいものが込み上げるのを抑えられなかった。
 てしん。
 軽く後頭部を叩かれ、愕然として振り返るとそこに孫策が居た。
 幾ら孫策とは言え、やっていいことと悪いことがあろう。怒鳴りつけても良かったのだが、趙雲は顔を顰めるに留めた。
「お前、何ぴりぴりしてんだよ」
 対して孫策は、常日頃と変わらないあっけらかんとした表情だ。
「別に」
「別にじゃねーだろ。あの女、何かあんのか」
 紹介されてはいるはずだが、興味のない対象は覚えようともしないのか。
「……月英殿ですよ。諸葛亮殿の、奥方です」
 趙雲が説明しても、孫策は興味なさげにふーん、と鼻を鳴らすだけだ。
「……何か、感想なりないのですか」
「美人だな」
 そう言ってからから笑うので、頭が痛くなった。手を焼く加減では、孫策とはどっこいのように思える。
「決勝戦で『あいや待たれい』ってやられた訳じゃねぇしなぁ。諸葛亮に策があるにしても、これじゃあねぇんじゃねぇか」
 な、と涼しい顔で笑いかけられる。
 そう言われてみれば確かにそうなのだが、趙雲としては納得いかない。
「……しかし」
 とは言え、何と言い返していいかわからない。目に見えない内に絡め取るのが諸葛亮の常であるから、目に見えた時には既に遅いのだ。
 月英が現れた、今の時点で何か一つ策が完成したと見るのが筋だと思う。
「それも策だったらどうするよ」
 孫策はただ笑っている。
「疑心暗鬼ってのか、それ起こさせて撤退させたり攻めあぐねたりさせんのも策になるんじゃねぇのか」
 そうだろ、と下から覗きこまれる。
 人懐こい笑みが、この際逆に癪に障る。
 むっとして黙り込む趙雲を、孫策は面白そうに見詰めた。
「おっ前、ホント面白ぇなあ。……のこととなると、滅茶苦茶むきになってよ。他のことには、興味なさそうなのにな」
 言われて、心臓が跳ね上がる気がした。
「……むきに、なっているでしょうか」
「……なってるだろ? 何、驚いてんだお前」
 今更と言われて、尚更落ち着かなくなった。
 振り回されている自覚はあったが、むきになっている自覚はなかった。
 呆然としている趙雲に、孫策は呆れたような視線を向ける。
「……わかって、なかったのかよ、お前」
 おかしな奴だと揶揄される。
「冷静なのか、そうじゃねぇのか。よくわかんねぇ奴だな、お前も。……いったいどうしたいんだ、お前」
 どうしたい。
 それは、趙雲がに投げかけた問いだった。
 はしばらく考え込んではいたが、その場で答えを出した。
 自分はどうだろうか。
 を行かせたくない、傍に置いておきたい。
 決まりきっている答えがあるのに、即答できない。
 には、したいようにしろ、行きたいところに行けばいいと言った。がそうしたいと決めたら、引かない女だと思っているからだ。
 否。
 そうではない、趙雲自身がそうしてやりたい、そうさせてやりたいと願っているからだ。
 否。
 を呉にやることが、蜀の為、劉備の為だからだ。
 否。否……。
「よせよせ」
 不意に揺さぶられ、趙雲ははっと我に返った。
 孫策が苦笑いしている。肩に手が置かれているのにも、初めて気がついた。
「お前結構アレな、思い込む奴なんだな。うちの周瑜とか、太史慈とかもそうだけどよ」
 いいかぁ、と孫策は腰に手を当て胸を張った。
「もっと単純に考えろよ、武道大会だぜ? こんな面白ぇこと、滅多ないぜ?」
「……はぁ」
「だからな、のことはな、ちっとこっちに置いといてだな、楽しもうぜ? な?」
「……はぁ」
 よしよしと、一人納得して趙雲の背中を叩く。馬鹿力に、むせそうになった。
「……しかし、孫策殿は少し、単純過ぎるきらいがあるように思われますが」
 憂さ晴らしと言うわけではないが、ちくりと嫌味を言ってみる。
「そーなんだよなぁ、それで周瑜にもよく怒られてんだけどよ、こればっかりはなぁ」
 大袈裟に嘆いてみせると、孫策は再びにっかりと笑った。
 効かないとは思っていたから、実際効かなくても何とも思わない。思わないはずなのだが、やはり趙雲の口からは溜息が漏れた。

 月英の為の戟はすぐに用意された。
 まるであらかじめ用意されていたようだと誰もが思ったが、口に出しはしなかった。
 後から参じて来た物見高い兵の話によれば、月英の兵はここ二日ほどほぼ寝ずの行軍を続けてきたと言う。月英は理由を明かさず、ただ申し訳ないけれどと頭を下げて兵に無理を強いた。
 文句の一つも出そうなものだが、兵士達は黙々と月英に付き従った。厳しいには厳しいが情に厚く兵を慈しむこと他の将にも引けは取らず、公明正大に扱ってきた故かと思われる。月英が頭を下げるならば、それ相応の理由があると思われたのかもしれない。
 王平と対峙した月英は、だから相当の疲労をしていたはずである。
 けれどその顔は穏やかで、決して疲労をうかがわせはしなかった。
「……参る」
 王平の足取りは力強く、見ている者に手抜きをしている印象など微塵も与えない。
 重い一撃が繰り出される、月英の非力ではとても受けられぬに違いないと誰もが思ったその瞬間だった。
 かぁぁぁん、と高い音が鳴り響き、王平の戟が宙を舞った。
 崩れ落ちたのは王平の方だった。
 姿勢良く屹立していた月英の体は、一瞬の瞬きの間に左足を深く踏み出し体を沈めた体勢に変じていた。
 どのような力が働いたのか、筋肉質で大柄な王平の体が浮き上がり、受身をとることも叶わず頭から落ちたのを他ならぬ観客達が見届けていた。
 文句なし。
 そう言わざるを得ない、ただ一撃の凄まじい落着だった。
 気絶した王平は、兵士達の手によって医師の元に運ばれていく。心配そうに見送っていた月英
だったが、審判の勝ち名乗りを受け、手にした戟を高々と掲げた。
 観客達は惜しみない喝采を送り、新たに決勝に加わる月英に声援を送った。

 すっきりして廊下をのんびり歩いていたは、やたらと盛り上がっている会場の騒ぎを聞きつけ目を見張った。
 しまった、何かよっぽどいい試合があったのか。
 見逃したことを後悔し、誰の試合なのかを想像した。
 趙雲は試合を終えたばかりだし、孫策か馬超、それとも関羽か張飛だろうか。
 早く戻らなくちゃ、と足を早めた。

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