急いで戻ろうと思っていたのに、途中で呼び止められた。

 張飛がうろたえている姿など、戦場以外でもなかなか見られる機会はない。
 それこそ、義兄弟である劉備や関羽は別として、同僚である将達や配下の兵士もまず以って見たことがなかった。
 その張飛が、まるで巣穴を追い出された熊のようにうろうろと攻めあぐねている。
 張飛の反対側に立つ星彩は、そんな父の姿にも無表情だった。
 だが、突然構えを解くと溜息を吐いて父の元に向かう。
「……父上、これは武道大会なのですから。私も困ります」
「つ、つったってお前ぇ」
 星彩の困惑と張飛の困惑は種類が違う。
 決勝に上がった時から父との対戦を覚悟してきた星彩と、決勝に上がり自身の優勝を確信しながら娘と当たることを何も考慮していなかった張飛とでは、どうしてもズレのようなものが生じてしまう。
「……何だってこんな早くに当たっちまうんだよ!」
 張飛は誰に怒鳴るでもなく愚痴を零した。何となく、最終戦で当たる予定にしてしまっていたのだ。下手をすると当たらないでいるつもりだったかもしれない。
「総当たり戦なのだから、遅かれ早かれ私と父上は戦う運命にあります。さ、父上。もういい加減に覚悟なさって下さい」
 星彩の言葉に、張飛の眉尻が情けなく下がる。
「だ、だけどよぉ……なぁ、星彩」
「駄目。私は、お姉さまの為に優勝すると決めたのだから」
 張飛の言いたいことを察したか、張飛が皆まで言う前に星彩はきっぱりと拒絶した。
「お、おねーサマってお前ぇ……俺とどっちが大事だってんだ!?」
「お姉さま」
 自棄気味に怒鳴る張飛に、星彩は心地よいほどやはりきっぱりと言い切った。
 畜生、と情けなさそうに赤い毛氈が敷かれた台を振り返るが、そこには義兄である劉備が小さな少女を横に侍らせ、ちんまりと座っているだけだった。
「父上、お姉さまに『畜生』なんて言わないで」
 心の優しい、繊細な方なのよと頬まで染められては、父としての心境は複雑を極めた。
「……えぇい、こうなったら仕方ねえ!」
 口をへの字に曲げると、ただでさえ厳つい顔が更に恐ろしくなる。観客の兵士の中には、何か悪い記憶でも呼び覚まされたのか頭を抱えて歯を鳴らす者まで現れた。
 しかし、幼い頃から父の顔に慣れ親しんだ星彩は平気の平左だ。やっとやる気になったかと、安堵の表情すら浮かべていた。
「……父上、参ります」
 年若の兵士に胸を貸す時は、にやにやといやらしい余裕の笑みを浮かべている張飛の顔が、泣き出すのではないかと思うほどひん曲がっている。
 無言で矛を構える張飛に、星彩は素早く間合いを詰め横合いから飛び掛った。
 張飛は真横に矛を構え、その柄で星彩の矛をきっかり弾き返す。星彩が一度飛び退り、再度間合いを詰めるべく身を沈めた時だった。
「降参だ!」
 ドラ声が会場に響き渡り、誰もがあっと息を飲んだ。
「降参、降参だ、畜生め!!」
 手にした矛を投げ捨て、張飛はすたすたと闘技場を出て行こうとする。
 審判が慌てて駆け寄り、後を追った。
「ちょ、張将軍、しかし……」
「降参だっつってんだろ、文句があるってんならこの大会、俺は降りる、否、もう降りる、降りるぞ畜生め!」
 突然の降参、突然の大会辞退に皆が皆呆然としている。
 関羽と劉備だけは『しょうのない奴だ』と苦笑いをしていた。
 数刻後、会場外で自棄酒を食らう張飛の姿が見られたとか見られなかったとか。愛娘の本気の一撃に、父としての真心が砕かれてしまったのだと、誰彼となく密かに漏らしていた。
 張飛対星彩、張飛の降参負けにより星彩の勝利。張飛はこの試合にて大会棄権。

 同じく親子対決が始まろうとしていた。
 こちらは血縁でこそないものの、父と息子としては理想の親子よと城下でも誉めそやされる二人である。
 関平は、己の一生の目標と定めた武神を前に、やや緊張の面持ちを隠せなかった。
 関羽は自慢の髭を撫で付けつつ、そんな息子の姿を目を細めて見詰めた。
「このような舞台で、息子と武を交える。望外の喜びよ」
 関平の目が驚き見開かれた。頬がみるみる内に紅潮し、恥じたのか顔を伏せる。
 が、すぐにその顔を上げた。頬は赤く染まったままだったが、顔つきに大人びたものを感じる。
「拙者、まだまだ未熟……ですが、父上を目指し磨いてきた武、少しでもご恩に報いるべく全てを出し切ってお見せしたいと存じます!」
 斬馬刀を模した木刀を構える。幅広の木刀は、本来の武器の利点をまったく反映していなかったが、関平に迷いはない。ぴしりと構えた姿には、凛とした清々しさすら感じられ、誰もがこの若い将に好感を抱いた。
 関羽の口元にも微笑が絶えない。対戦相手として見ていないのかもしれない。
 それに関平が気付けば傷ついたかもしれないが、関平にはそんなことを感じる余裕は微塵もない。悠然として構えもしない父の姿に、却って気圧されるようにぐっと唇を噛み締めた。
「そなたのそのような所、父は好ましく思うぞ。だが、戦人としては」
 関羽の声はあくまで穏やかだが、手にした青龍刀を模した木刀がゆらりと揺れると、殺気よりも尚澄み切った気が関平の肌を冷ややかにした。
「まだまだよ、な」
 武神のみが持つ、武の威圧に他ならぬ。
 関平は生唾を飲み込んだ。
 勝てるとは元より思ってはいない。ただ一太刀で良い、自分の納得の行く一撃を、放つことさえ出来れば悔いはないと思った。
 武神とはそういうものであり、そういう存在なのだ。
 この武神と渡り合うことを、幾人の武を目指す者達が夢見たことか。
 息子と言う恵まれた立場を手に入れて尚、このような場に恵まれる己の幸福を関平は噛み締めた。
 合図らしい言葉も声掛けもない。
 二人はお互いの気を感じ、お互いの昂ぶりを以って戦いの火蓋を切っていた。
 じり、とわずかに擦れる音が響く。じり、じりとわずかずつ二人の距離は縮まっていく。
 観客も息を殺し、毛筋一本落ちる音も立てまいぞと神経を集中する。
 鳥肌立つほどの緊迫感が、会場を支配した。
「……てぇりゃあぁぁぁぁっ!!!」
 耐えられなくなったかのように関平が踏み込み、関羽に必殺の一撃を打ち込む。
 避けるかと思われた関羽は、しかし紙一重の差で関平の一撃を受け止めた。ほんの少しでも遅ければ、横殴りの剣風が関羽の鼻柱を叩き折っていただろう。
 防がれることは読んでいたのか、関平の乱撃が始まる。
 大振りの木刀にも関わらず、斬撃は鋭く早く、予想のつかない軌跡を描く。
 だが、関羽はまったく動じずにすべての斬撃を尽く受け止めた。
 関平の額に汗が滲み、鉢金の下からじんわりと滲んでくる。対する関羽は落ち着いたもので、何らの変化も見られない。
 斬撃はひたすら続き、関平の汗が珠となって散った。
「りゃ・あ・あ・あ・あ・あ―――っっっ!!!」
 最後の力を振り絞るかのように力強い斬撃が繰り出された。
 一太刀、二太刀、三太刀と受け止めた関羽の青龍刀だったが、上段から振り下ろされる四太刀めを受け切れず、関羽は一歩後ろに下がった。
 最後の太刀をもかわされてしまい、関平の木刀は闘技場の床をえぐるに留まった。
 乱れた体勢に、慌てて間合いを取る関平だったが、関羽は静かに立ち尽くしていた。
「審判」
 関平から目を逸らした関羽は、凄まじい攻防に目を奪われていた審判を呼びつけた。
 一息ついた観客達も、何事かと関羽の動向に集中する。
「降参だ」
 空気が凝った。
 次の瞬間、爆発するように人々の歓声と怒号が飛び交った。
 実際のところは喜びでも怒りでもなく、ただ驚愕した人々が喚き散らしているに過ぎない。
 一番驚いたのは関平で、構えたまま身動くこともできずぽかんと関羽を見上げている。
「平よ、強くなったな」
 微かに微笑み背を向ける関羽に、ようやく金縛りの解けた関平が追い縋る。
「お、お待ち下さい父上! これでは……これでは拙者は……!」
 納得がいかない。
 打ち合ってすらいないのだ。ただ関平が乱撃を繰り返し、それを関羽が受け止めていただけ。関羽がその気になれば何時でも弾き返せただろうし、隙を見て反撃することも容易かった筈だ。
 関羽は首だけ振り返ると、関平を睥睨した。常ならば萎縮して目も合わせない関平が、必死に関羽と向き合っていた。よほど納得がいかないに違いない。
 関羽の口元が緩んだ。
「そなたの斬撃、本来であれば武器の重量も加わり重く固いものになっていただろう。それであれば兎も角、その軽い木刀とでは打ち合う気にもならぬ。それよりも、父はそなたの武をただ一人の観客として見とうなった」
 父、と自らを指し示した関羽に、関平は言葉もない。
「この儂が勝ちを譲るのだ。無様な負けは許さぬ。しかと肝に銘じよ」
「……は、はい!」
 重く厳しい関羽の言葉を、関平は拱手の礼を以って応じた。
 関羽対関平、関羽の降参によって関平の勝利。関羽はこの試合にて大会棄権。

 大本命二人の思わぬ棄権に、えらいことになった、と観客達は騒ぎ立てている。それらを見下ろし、劉備は勝手な義弟達の振る舞いに苦笑していた。想像の範囲内ではあったが、相変わらずと言えば相変わらずだ。
 そう、私達は何も変わらぬのだな。
 こうして一国の君主、その手足となったにも関わらず、心は未だあの桃園に在る。
 呆れるような心強いような、不思議な感慨に襲われて劉備はしばし無言になった。
 その時、背後からカタンと小さな音がした。
 振り返ると、がひょっこりと顔を覗かせる。
「おお、、遅かっ……」
「見ないで下さい」
 気安い劉備とは対照的に、の声は強張っている。よくよく見れば、顔も何処か思い詰めているようだった。
「どうした、。何かあったのか」
 心配して立ち上がった劉備に、は思わず仰け反ってしまいバランスを崩す。どうにか両手で梯子を掴んで安定させたが、ほっとする間もない。
「な、どうした、その服は!?」
 上擦った声に、の背中が総毛立つ。
 物凄い勢いで梯子を駆け上がると、梯子の端を引っ掛けて声の主の方に投げ倒した。
「バカッ、見んな!」
 のわっ、という悲鳴と共に梯子が倒れる壮絶な音がする。
 肩で息するに、半ば茫然自失の態の劉備が恐る恐る声がけた。
「……、その、その格好はいったい……」
 は見目も鮮やかな緑の装束に着替えていた。それはともかく、首周りや腕にはしっかりと布が覆われているのに、胸元は引き裂かれたかのように深く切込みが入れられ、ぎりぎりまで露出させられている。普段は長い文官装束の裾に隠された脚は、太腿の半ばよりも上の方までしか隠れない短い丈に変わっており、更に前側に切込みが入れられているという具合だ。
 梯子を上っていたら、上からは胸の谷間が覗けてしまうし下からは下着が露出してしまうのが見えてしまっていただろう。『見ないで下さい』と言ったのも頷ける。
 は滑り込むように台の真ん中に駆け込むと、正座をして行儀良く手を重ねた。そうしないと裾の中が見えてしまうのだ。だが、それが一番多くを見られずに済む姿勢でもある。
「しゅ、春花、悪いけど上掛けかなんか取ってきて……今すぐ……お願いだからっ!」
 昨日の今日で寒いに違いないからと厚着をしていた為、防寒具は何も持ってきていなかった。敷いてある毛氈を巻きつけるわけにもいかない。春花は主の悲鳴混じりの切実な願いに力強く頷き、台の端に駆け寄った。
 馬超様、その梯子返していただけますかー、と叫ぶ春花を見遣りつつ、劉備は青褪めているの傍らにそっと添う。外套なりを身に着けていれば良かったのだが、生憎何も着けていない。せめて風避けにと膝を屈めたのだ。少々目の遣り処に困って、何気なく春花の背に目を向けて口を開く。
「……どうしたのだ、その格好は。寒がりのそなたが」
「いやもう私にもてんでさっぱり」
 棒読み口調で投槍に答えるに、うっかり目を向けた劉備は慌てて目を背ける。
「諸葛亮様が何をお考えになってるかなんて、私にわかる訳がないです」
「何?」
 の格好は諸葛亮の仕業らしい。
 それがわかったとて、確かに劉備にも諸葛亮の考えがさっぱりわからなかった。
「あっ、上がってこなくていいんです、もう梯子だけで……ちょっと馬超様!」
っ!」
 春花が諌めるのを押し退けて、馬超が顔を覗かせる。
「いったいどうしたのだ、その格好……わ!?」
 が傍にあった茶碗を力いっぱい投げつけた為、馬超はバランスを崩して台の向こうに消えた。再び凄絶な音が鳴り響く。
「……馬超様、梯子ー……」
 春花が困ったようにおろおろしている。
 一瞬にして修羅場と転じた台上に、皆の注目が集まっているのをはまだ知らないでいる。

←戻る ・ 進む→


Together INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →