春花がやっとのことで梯子を降り、の為に上掛けを取りに走っていった。
 梯子には馬超が掴まっており、が何かを投げつけても大丈夫なように身を低くしていた。
「……おい、!」
 くるりと振り向くは、正に般若のような恐ろしい顔をしていた。
「……何よ」
 表情が格好とまったくそぐっていない。そぐってないが、よく考えると非常にそそられる格好をしているのだった。
 立て襟から下る合わせ目は胸の起伏を前にぐっと掻き分けられ、凹凸を半分ほど露出させた後に再び閉じる。布の裁断によるのか、胸が強調されていつもより大きく見えた。知らない間に育っていたのかもしれない。更に下って、今は重ねた手の平で隠されてはいるのだろうが、前側に切れ込みが入っているのがぱっと見ですぐわかるくらい深い。座っているから裾がたくし上がり、手で隠さねば見えてしまうのだろう。
 閨でのしどけない様を思い出し、馬超は思わず口元を隠した。
「エロい顔してないで、さっさと闘技場戻りなさいよ!」
 半泣きで喚くに、馬超は顔に力を入れて律した。エロい顔というのがどんなものかはわからないが、の癇に障る顔をしているのだけは間違いない。
「いや、だから、その格好はいったい……」
「あんた達にやる気起こさせる為のサービスだって! 諸葛亮様にたんとお礼申し上げやがれってんだ、バーカ!」
 これまで、人前では一応とは言え気をつけていたも、自分に課せられた試練の出で立ちにキレ気味だ。馬超相手に悪口雑言の大陳列をしてのける。脇には劉備が居て目を白黒させているが、それすら気がついてないらしい。
 見目麗しい肢体とは言い難いが、馬超が視点を低くしているものだから、目の高さにの尻がくるのだ。短い丈を必死に引っ張り下げているので、ぱつんぱつんに張り詰めた布地に尻の線がくっきり浮き出て見える。そこからすぐ白い太腿がにゅっと伸びていて、正座に折り曲げられた足の肉が重みでたわんでいるのもよく見えた。普段隠されているとはいえ、閨では触れもしたし口付けもした女の脚如きがこれほど淫靡に感じられるとは思いも寄らなかった。
 再びしどけない様を思い出し、いかんいかんと頭を振る。
「なるほど、えろい顔とやらはそのような顔なのですね」
 本心から感心したような声に、じと目で振り返ると馬岱が居た。
「岱」
「そんなところに張り付いておられる従兄上が悪いのですよ」
 さっさと降りていらっしゃい、と母親のような口を聞く。
 馬超がぶつぶつと文句を垂れながら降りると、馬岱はさっさと梯子を片付けさせてしまった。
「従兄上と私は、試合があるでしょう」
「何も梯子を」
 片付けさせずとも、と続けようとした馬超のわき腹に、馬岱の鋭い肘鉄がめり込む。
 西涼を出てからとんと手加減をしなくなった従弟に、馬超は怒鳴りたいのをぐっと我慢した。
「……どうせ、春花がすぐに戻ってくるぞ」
「いいんです、まさかとは思いますが上がりこまれても事ではありませんか。周りを良く御覧なさい」
 小声で話し掛けると、馬岱も小声で話し返してきた。
 言われて辺りをこっそり見回すと、何故か先程よりも人が多い気がする。試合は続けられているのにも拘らず、だ。
「普段隠れていると言うだけで、物珍しく猥褻に感じるのやもしれませんね」
 先程の馬超と同じようなことを口にする馬岱に、馬超は一瞬考え込んだ。
「……なっ!!」
「しー、従兄上、お騒ぎになればなるほど殿のご迷惑になるではありませんか!」
「しかし!」
 ここに集まっている者達は、の脚を覗きに来た愚劣極まりない男達なのだと、他ならぬ馬岱が告げたのではないか。それとわかって何もしないでおられる程、馬超は冷静ではない。
殿が仰っておられたでしょう、諸葛亮殿の命であのような姿でおられるのだと! ならば着替えもままなりますまい、台の上であのように座っておられる限りは大丈夫です!」
「だが、だがな、岱」
 それではあまりにが不憫だ。
 下層の兵士達のいい慰み者ではないか。実際に何をされずとも、頭の中でどう汚されているかわかったものではない。
「……何の為に従兄上を引き摺り下ろしたのか、おわかりになってなかったのですか」
 引き摺り下ろした自覚はあるのか、と馬超はズレた感想を抱いた。
「従兄上がいつまでもあそこで鼻の下を伸ばしていたら、兵士達も興味をそそられるばかりで散会しないから、降りていただいたんです!」
 小声を維持しつつも本気でキレ掛けている馬岱の迫力に、馬超は怯みつつも己の思慮の浅さにただ恥じ入って赤面した。

 馬超が闘技場に上がると、対戦相手は既に待ち構えていた。
「……遅くなり……」
 馬超が詫びると、涼やかな笑みが返ってくる。
「いいえ、どういたしまして。さほどには、待っておりませんよ」
 蜀軍のほとんどの将がそうらしいが、馬超もまた、この月英というひとが苦手だった。
 美しい人であることに疑問の余地はない。ないが、何と言うかあまりに揺るぎない信念と意志が、その透き通った美しさから滲み出て来るようで圧倒されてしまうのだ。
 孔明が白と言ったら墨や烏も白だと言い切りそうな、そして本当にそうなのだと信じて疑わないような盲目的な情熱を感じる。
 それは、居並ぶ大抵の男を圧倒してしまう、狂信的な愛だった。
 諸葛亮だから耐えられもしようし、むしろ喜んで迎えたのだと深く納得できるひとなのだ。
 これ以上似合いの夫婦も居るまい。
 係わり合いにさえならなければ喜んで祝福もするが、係わり合いも何も同国の将として肩を並べなければならない立場だ。
 嫌いではないが苦手という人間が居ることを、報恩報復をのみ旨とするが如くの馬超も蜀に来て初めて知ったのだ。
 いや、とかどうも、等ともごもごよく聞き取れないような声で返事をし、審判を目で促す。
「……では、馬超殿、対して月英殿の試合を始め申す! ……いざ、尋常に……勝負!」
 試合開始の声に、馬超は先手必勝とばかりに間合いを詰める。
 月英とて女、腕力による力押しには些少は労するはずと、まずは力勝負を挑んだのだ。
 疲れさせて早めにしかもあまり傷つけずに試合を終えてやろうと、馬超は槍を突き出した。
 月英が戟を横にして槍を弾き、馬超の読み通りに力比べとなった。
 ぎりぎりと、手の中で木槍が加えられる圧力に悲鳴を上げる。
 女にしては力強くはあるが、月英の足元がわずかに後退したのを靴底が擦れる音で聞き取り、馬超の気が微かに緩んだ。
 ふっと上げた視線の先に、月英の微笑がある。
 何、と埒もなく慄くと、月英の唇が馬超にのみ届く微かな声を紡いだ。
殿のおみ足は、白昼の下で見るとまた存外白くて綺麗でしょう」
 頭の中が一瞬真っ白に染まった。
「せやっ!!」
 月英の手から雷撃の如き素早い一撃が繰り出され、馬超の槍は呆気なく弾かれた。
 戟は過たず馬超の身に取り付けられた瓦を打ち壊し、それこそ瞬きする間にすべてが打ち砕かれた。
「なっ……!」
 馬超は、瞬間の出来事に声もない。
 月英は戟を軽く回すと手に納め、にっこりと微笑んだ。
「雑念が強過ぎるようですね、馬超殿」
 愕然として言葉もない。
 あまりに無様な負け様に、馬超は呆然と立ち尽くしていた。
 馬超対月英、月英の完勝。

「あ、何やってんのよ孟起!」
 一瞬の隙をも見ていた。
 思わず立ち上がって前に乗り出すと、周囲からどよめきが溢れ出す。
 気付き、ぐは、と吐血して慌てて座り直すが、兵士達の興味津々な視線が肌を突き刺すかのようで辛い。
 劉備が目で威嚇して追い払ってくれるのだが、気がつくとさり気なさを装ってまた元の位置に戻ってくる。噂でも広まったか、人の数が増えてきているような気すらする。
「……何か……珍しいんですかね……」
 最早試合にもろくに集中できない。集中すれば無意識に大サービスする羽目になる。兵士達がまた、有り得ないほど素直にの装束に目を奪われてくれるものだから、恥ずかしくてしょうがない。
「それもあろうが……趙雲や馬超の想い人として噂が立ってしまっているだろう? その、その上でそのような格好をしているから、兵士達もつい興味を引かれるのかも知れぬな」
 真隣に居る劉備などはそれこそ見たい放題なのだが、さすがに遠慮してそっぽを向いていてくれる。
 趙雲だけでなく、馬超のことも知れ渡っていたか。ならば、姜維や孫策のことも直に知れ渡るやも知れない。いや、知られていると見た方がいいかもしれなかった。
 女は注目されてナンボと言うが、寒いし、恥ずかしいしで正直いいことは何もない。
 人様にお見せするほど大したものでもなし、早く何かで隠したいと、春花の帰りをじりじりしながら待っている。もうずいぶん経つが、どうしたのだろう。
 そんな風に考えていると、ことんと音がしてやっと梯子が掛かった。
「もう、春花ってば何処行って……」
 振り向くと、そこには見知らぬ若い男が立っていた。の姿を見て、顔を真っ赤にしている。
「あ、あの、丞相からのお申し付けで、これで我慢なさって下され」
 重そうな壷を抱えてきた。
 手を翳すと暖かい。火鉢のようなものらしい。
「お茶でしたら、幾らでもご用意できます故」
 鉄瓶を乗せた小さな炉のようなものも、台と一緒に持ち込まれた。
 では、と頭を下げる間も、ちらちらとの格好に目を遣る若者が去り、後から申し訳なさそうな春花が昇ってきた。
「……さま、あの、申し訳ありません……諸葛亮様に見つかってしまって……」
 諸葛亮直々に邪魔しやがったとなれば、春花に非はない。
 は春花に努力しつつも乾きがちな笑みを向ける。
 つまりは、どうしてもこの格好で居ろと言うことらしい。
さま、あの、お茶は」
「……お茶はいいや……暖まりたいから、お湯だけ頂戴……」
 この格好で茶など飲んだら、トイレが近くなるだけだ。そうしたら、またこの格好で人の中を掻き分けて移動しなくてはならなくなる。
 特に今、周囲で頑張っているのはを見に来た兵士達だろうから、降りるに降りられない。
 火鉢に向かっても、心は寒々しい。
 何の為にこんな格好をさせているのかと、は諸葛亮の企みをぼんやりと考えた。
 実はのその格好のせいで馬超が負け月英が勝ちを取ったのだが、それはの与り知らぬところである。
 湯を張った茶碗を手に持ち、暖を取りながらは熱戦の続く試合会場を眺めた。
 日が傾いてきている。
 ひょっとしたら、今日中には終わらないかもしれないな、とは溜息を吐いた。

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