ここ数日の馬超の精勤振りには目を見張るものがある。
 他方の評価は知らぬが、少なくとも馬岱の目にはそう映り、酷く嬉しがらせた。
 職務が滞ることなく処理出来るのもさることながら、何より熱心に仕事に打ち込む従兄の姿は、贔屓目なしに男振りを上げていた。
 あってのことだ、と馬岱にはわかっている。
 能力がないわけではないが、どうにも机仕事という奴に向かない。馬の調教や練兵には遺憾なく集中できるくせに、座っておとなしく文を書く、となるとどうにも使えないのだ。
 西涼にいた折は、こういう仕事は文官に任せていたからかもしれない。だがそれは、戦乱の多い地であればこその役割分担であって、蜀に当てはまるものではない。文官は数多く居れど、馬超自らが確認しなくてはならない書簡は他の者には、無論馬岱にとて扱えない。馬超がやるしかないのだ。
 そこのところを、馬超は今一つ理解してくれていないのだが。
 が馬超の文官として勤めてくれたら、と最近馬岱は考えるようになった。
 他の将軍には大抵文官が着いている。
 馬超に限って馬岱が着いているのは、ただ単に、他の者では馬超の面倒を見切れないというだけなのだ。
 非効率も甚だしい。馬岱とて一介の将であり、一軍を率いて事に当たる能力を持ち合わせている。馬岱が馬超から離れるなど、実は考えにくいことではあるのだが、もしそれが叶えば諸葛亮辺りは嬉々として軍の編成に当たるに違いない。
 人材不足こそが蜀の懸案だったからだ。
 なら、馬超の面倒を見、かつ尻を叩き、やる気を出させる術に富んでいるに違いない。
「……何だ、岱」
 何時の間にか馬超が筆を止め、不機嫌そうに馬岱を見上げていた。
「いえ、何でもありませんよ従兄上。それより、その書簡を終わらせてしまえば本日の執務は終わりです」
 頑張って終わらせてしまいましょうね、と言うと、馬超は少し考え込むように卓の端に視線を投げかけ、溜息を吐きつつ筆を持ち直した。
 馬超の溜息の意味を、馬岱は悟れていない。

 屋敷に戻ると、まずの室を訪れる。
 これがここ十数日の馬超の日課だった。
 早かろうが遅かろうが、まずそうする。
 家人達はそんな主と主の想い人を微笑ましげに、かつ気の毒そうに見詰める。
 の足が治らねば、馬超の想いが昇華されないと言う話は、屋敷中に広まっている。
 さすがの馬岱もそこまで気が回らずにいた。本人の性質によるのかもしれない。
 家人の見立てでは、馬超の溜息の理由はこれに違いないと決め付けられていた。
 早くの傷が良くなるようにと精のつく食事を考えたり、動かさぬが良いと聞けば用に御輿を仕立て、何処かに移すのにも男三四人が呼びつけられての大移動となる。
 よくよく主想いの屋敷なのだ。
 日中通ってくる春花の送迎さえ、人手を割いて当たるのだから、病的と言っていいかもしれない。
 馬超が室に入ると、は牀の上で足を伸ばして書簡を読んでいた。
 おかえり、と微笑まれ、馬超の口元が緩む。
 うむ、と頷いて答えるのだが、夫と妻の遣り取りを思わせて気恥ずかしい、というより嬉しい。
 と共に暮らすことは、馬超の念願でもあった。夜、牀を共にすることこそ馬岱の横槍で叶っていなかったが、屋敷に帰ればが居て、おかえりと迎えてくれる。
 思ったよりもくすぐったい、けれど充実感で満ちた。
 馬超は、無造作にの足首に手を伸ばし、巻かれた白布をそっと撫でる。
 の顔が少し苦笑に歪み、馬超は胸の中が重苦しいもので塞がれる気がした。
 医師が言うには、思ったよりも治りが遅いとのことだった。
 自身は下にも置かない供応を受けており、怪我した足を一寸も動かしてはいないはずなのだ。治りが悪いはずがない。けれど治らない。
 この事実が、馬超の溜息の真の理由である。
 抱きたいのに抱けずにいる。確かに、それも理由の一つなのだが、の怪我が治るまで、ならば治らねばよいと念じていたのが現実になったかのようで、それが心苦しい。
 馬超が物思いに耽っていると、が馬超をじーっと見詰めている。
「……何だ」
「う、あ、いや、何でもないッス」
 が馬超の屋敷に来てから、こんな遣り取りが幾度かあった。
 いつもは特に気にしていなかったのだが、今日は馬岱に顔を凝視されたりしたので、何となく追求したい心持になった。
「何だ、言え」
「いや、ホント何でもないし」
 顔を近付ければ赤面して後退る。足を動かさせまいと背中に手を回し、抱き込んで押さえつける。
「言え」
 未だ無駄な抵抗を続けるに、馬超は口付けを落とした。
「言え」
「……ホント、何でもないって……」
 また口付ける。今度は唇を割り、舌で歯列の表面を一巡した。
 何をしたか知らしめるように、馬超は舌を差し出し唇を舐め上げた。
 の頬が染まる。足を動かさないように、と馬超の手で膝を敷布に縫い止められていた。
 それが、何故だか妙に恥ずかしい。
「う、あの、いや、だから」
 要領を得ないの言葉に、馬超の顔が近付けられる。
「うゃ、だから、あの、だからね!」
 慌てて馬超の顔を抑え、優しい責め苦を留めさせる。は顔を赤くして、視線を逸らした。
「いや、あのだから……ど、どーしてるのかなぁって」
 如何。
 どうとは、どういうことなのか。
 馬超の眉が訝しげに歪み、無言でに問いかける。
「……いやだから……夜、の、その、欲求、つーか」
 馬超の顔が、の言葉が重ねられるにつれ、徐々に強張っていく。
 が汗を滝のようにだらだらとかき、言葉を失って黙り込むと、馬超は重々しく口を開いた。
「……で、その問いに答えると、何がどうなるんだ」
 てっきり怒鳴られるか怒って出て行ってしまうに違いないと思っていたは、馬超の問いかけに驚き目を見張った。
「ど、どうって……」
 馬超がを欲して止まず、抱きたいと願っていたのは事実である。
 が怪我をしているから、弱っているから守ってやらねばと自分を強硬に諌めていた馬超には、の問いは酷く残酷なものだった。
 抱きたい、己を刻みたいという欲求が、鎖を引き千切って暴れだすような錯覚に陥る。
 腕の中に居るのだ。
 甘やかな体臭が鼻をくすぐる程近く、手の平の内側の肌が、の熱に煽られて粟立つようだった。
「……どうせ治りが遅いなら、少しくらい足を揺さぶることになっても構わんか?」
 自嘲気味に吐き捨てつつ、ゆっくりとの上に圧し掛かる馬超に、は慌てふためく。
 無為にぎゃあぎゃあ喚き、馬超の背をぱしぱし叩く。
 馬超の唇が首筋を這い、ちろりと舐め上げた。
「ひぁっ」
 敏感に感じる体が跳ね上がり、恍惚とした高い声が上がる。
 馬超の動きが止まる。
 の肩を掴む指に力が篭り、は痛みに眉を顰めた。
「……くっ!」
 勢い込んで馬超が身を起こし、そのままに背を向ける。
 解放されたは頬を染め、点りかけた熱に熱く吐息を弾ませた。
「……くだらんことを、言うな。……歯止めが効かなく、なる……」
 そのまま立ち去ろうとする馬超を追おうと、は慌てて身を起こそうとして、足を捻ってしまう。
「痛っ!」
 ぎくりと肩を跳ねさせ、馬超が駆け戻ってくる。
「どうした、!」
 うろたえる馬超に、は苦笑いを浮かべ、次いで逃さぬように馬超の二の腕辺りをがっしりと掴んだ。
 の手に戸惑いながら、馬超は再びの横に座った。
「……あの……あのね」
 言いにくそうにが俯くのを、馬超は肉の欲求がもたらすのとは違う、気恥ずかしい胸の高鳴りを感じた。
「あの」
さまっ、何かございまして!?」
 扉がばぁんと開き、春花が仁王立ちしていた。
 にぴったりと寄り添うようにしている馬超を見、春花の目がくわっと見開かれる。
「何を、なさっておられるんですか将軍様っ!」
 春花の見た目は何処にでもいそうな可愛らしい少女なのだが、馬超は事の外苦手としているらしく、その怒鳴り声に肩を竦めた。
 帰るところだったらしく、追いかけてきたと思しき馬超の家人が、慌てふためき春花の腕を取る。
「後で、夜、来て」
 春花の気が殺がれた隙に、は馬超に囁いた。
 驚き固まる馬超を、はぐいーっと押し退けて、春花に愛想笑いを向ける。
 扱いの悪さに、常ならば文句を言うところなのだが、今の馬超はそれどころではない。
 後で、夜、来て。
 言葉の意味を測りかね、馬超は口をへの字に曲げた。
 わからないのに、頬が火照る。緩みそうになる頬を必死に吊り上げる。
 心臓の鼓動が鼓膜に響き、煩わしくなった馬超はぶるりと頭を振った。

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