馬謖が肩を落として目の前を通り過ぎていく。
 広く考えれば、馬謖もの同僚に当たる。気になって、装束の露出に用心しいしい声を掛けると、馬謖が顔を上げた。
「や、これは殿」
「どうかしましたか」
 普段は快活で明るい人柄の馬謖は、ほとんどいつも口元に笑みを浮かべている。こんな風にしょげ返っているのは珍しい。
「……いや、お恥ずかしい話ですが、まだ勝ちに恵まれずにおりまして」
 面子が面子だから、年若で文官の馬謖が勝てずにいるのは仕方ないと思われる。相手は武のプロなのだ。
 しかし馬謖は深く溜息を吐く。
「若輩ながら、せめて丞相のお役に立てれば……と思ったのですがね」
 馬謖の試合はも上から見ていた。惜しい試合が続いている。回り込む速さもあり、瓦を狙うのや足さばきは上手いのだが、後一歩が足りずに惜敗していた。素人のから見ても、肩に力が入り過ぎている感じだった。
「それにやはり、何と言うか……応援の声に、気迫負けしてしまいましてね」
 各武将が軍を率いている身だから、手下の兵がそれぞれで応援団を結成しているらしい。戦場で鍛え上げた喉で声援を送られては、気迫負けするのも仕方ないかもしれない。
 だったら。
 の悪い癖が出た。

 孫策は、対戦相手の馬謖を見てはいなかった。
 馬謖の後ろの方で闘技場の台にちょこんと手を掛け、小動物然としたを見ていた。
「な、何でがそこにいんだよ!」
 お前はあっちだろ、と劉備のいる台の上を指差す。
「私が何処にいようと誰を応援しようと勝手でしょうが」
 はつんと顔を逸らした。
「え、あ、俺の応援に来たのか?」
 じゃあこっちだぜ、と指を後ろに指す。孫策には手下の兵士はいないが、その人柄ゆえか多くの兵が孫策を応援していた。
 孫策にそんな技能はついてなかったはずだが、おかしいな。
 ついてたかどうだかももう定かではなかったが、それでも孫策の周りに人が集まっているのに間違いはない。
 対して、馬謖の応援に集っている側はイマイチ寂しい。同僚の文官達は執務の穴埋めに駆けずり回っていて、とても応援どころの騒ぎではないのだろう。馬謖の負けが混んでいるのも原因かもしれない。判官びいきなどと言う言葉は、ここにはないのだろうか。
 よし、とは気合を入れ直した。
「馬謖殿! 伯符の動きに惑わされないで下さいねっ!」
「はいっ!」
 孫策の顔がむっとする。
「ちょっと待て、! お前、俺を応援しに来たんじゃないのかよ!」
「馬謖殿の応援に来たんだよ」
 誰がいつ孫策の応援に来たと言ったか。
 ふんぞり返って胸を張ると、胸元の布にも力が入って左右に引っ張られる。ただでさえぎりぎりのラインが、更に際どいラインを描いた。
 一瞬孫策が目を奪われ、隙を見逃さなかった馬謖が気合一閃、懐に潜り込むと瓦を二つ叩き割った。
「やった、スゴイ、馬謖殿!」
 が飛び跳ねると、今度は胸が上下に揺れる。周りにいる兵士達が顔を赤くしているから、裾の方も露出してしまっているのかもしれない。
「……おい、ちょっと待て
 の格好は単に目の保養なだけで気にもならないが、の周りの反応は気になる。
 好きな女の体をただ見されるのはどうにも我慢できない。孫策でさえそうなのだから、隣の闘技場に居る姜維などは更に心を千々に乱していた。
「姜維殿、隙だらけですよ」
 相手の馬良は、後一枚まで容易く追い込んでしまった余裕もあってか呆れるばかりだ。
「わ、わかっております」
 闘技場に上がった時、隣の闘技場に向け堂々と歩くを見てよりずっと姜維の動揺は激しい。
 姜維が最後にを見た時には確かにいつもの文官装束だったにも関わらず、数刻も経たぬ内にまったく異なる装束に着替えていた。しかも、いつも隠していた両の脚をかなり上の方から剥き出しに晒しているわ、柔らかな胸乳の半分ばかりを晒しているわで、何故わざわざ男の欲を掻きたてるような、否、そんな寒そうな装束を身に纏っているのか問い詰めたくて仕方ない。
 試合開始の声も耳に入らず、あっという間に馬良の優勢が確定してしまった。
 自覚しても、どうしても気になって試合に集中できない。
 逆転を目指そうにもこう気が散ってしまっているのでは、例え武力に劣る馬良相手とは言え難しいだろう。
 姜維は深く息を吸い込み、姿勢正しく屹立した。
「降参しますっ!」
 そのまま闘技場をぴょんと飛び降り、の元に駆けていく。
 馬良は苦笑し、審判に目を向けた。
 呆気に取られていた審判も、気を取り直して馬良の勝ち名乗りを上げる。
 木剣を高く掲げ、観客に応えながらも馬良は苦笑を禁じえなかった。
殿っ!」
「あ、伯約。試合終わったの?」
「終わりましたが、あの!」
「じゃあ、一緒に応援しよ」
 思わず『はい』と頷いてしまう自分が嫌になる姜維だった。
 孫策はどうもやりにくいらしく、の方をちらちらと見ている。孫策もまた、の格好に気を取られてしまっているのだろう。
 姜維は周りからの姿を出来る限り隠しつつ、夢中になって応援しているの気が試合から逸れるのを辛抱強く待った。待ち続けた。待ち続けまくった。
「やった、後2枚ですよ、馬謖殿ーっ!」
 一向に逸れる様子がない。
「……殿」
「うん、後2枚だよ伯約」
「はい、そうですね……あの、殿」
「うん、伯約も応援して」
 思わず『はい』と頷いてしまう自分が憎くなる姜維だった。
 馬謖は懸命に孫策の連撃に耐えている。衝撃に、肩にある瓦が音を立てて割れた。打撃がかすって、もろくなっていたのが振動に耐えられなかったのだろう。
 これで馬謖と孫策の瓦は一枚差、決着は間近だと誰もが感じ取っていた。
「うわぁ、馬謖殿っ! 頑張ってっ!!」
 肩に力の入るに、姜維がふっと目を向けた時だ。
 胸元の白い肉の辺りに、僅かに朱色が滲んでいるように見えた。場所が場所だったが、何だか気になって目を凝らす。
 え、と思う間もない。
「!!!!!!」
 姜維は横合いからの胸元をがっしりと握った。も、突然の出来事に声もない。
 驚天動地で動きを止めたと、そのの胸乳をがっしり握りこんでいる姜維。
 真っ先に気がついたのは、闘技場の上からちょくちょくの様子を伺っていた孫策だった。
「んなっ……何してやがる、手前ぇっ!!」
「隙ありっ!」
 孫策が駆け出そうとした瞬間、孫策の腹に置かれた瓦を馬謖の木剣が叩き割った。
「……勝負あり、勝者、馬謖殿!」
 どっと観客が盛り上がる。
 孫策は負けたことに気がつきもせず、そのまま真っ直ぐと姜維の元に駆け出していく。
「何してんだよっ!!」
「い、いやこれは!」
「……っっっ、は、伯約、手っ、手ぇ離してっ!!」
「いや、ですからっっっ!!」
「いいから離せってんだよ!!」
「ですから、これは!!」
 突如起こった乱闘騒ぎに、観客達は別の意味で更に盛り上がりを見せた。
 孫策対馬謖、馬謖の完勝。
 馬良対姜維、姜維の降参により馬良の勝利。

 騒ぎに動じることもなく、趙雲と月英は向かい合っていた。
 じりじりと、円を描きながら間合いを詰める二人。
「丞相は、何をお考えで」
 趙雲の独り言めいた言葉に、月英の唇がわずかに綻んだ。
「あの方はあの方なりの考えがおありです。凡人の私如きでは、窺い知ることはできません」
「凡人、貴女が」
「凡人です、ただ信じてお仕えすることしかできません」
 それがどれだけ難しいことか、どれだけ辛いことか。
 趙雲は自嘲して口元を歪めた。
「人の心は移ろいやすい。貴女が容易に為されることは、他の者には困難に過ぎる」
「ならば、何に何を託すのです」
 移ろいやすい、ならばどうするのか。
 容易と言ったことを詰られたようで、趙雲は自嘲を苦笑に変えた。
「申し訳……」
「謝って下さるのなら、全力で戦って下さいませんか」
 何故。
 趙雲の無言の問い掛けに、月英はふっと眼差しを暗くした。
「申し上げたでしょう、信じるしかないのだと」
 信じる為に心の葛藤をどれだけ耐え忍ばなくてはならないのか。
 時に、何もかもを忘れ、全力で何かに打ち込みたくなる。
 趙雲と月英は、同時に後ろに跳び退った。
「ならば」
「ええ、では」
 身を低くした二人が、同時に飛び掛る。
 舞を舞うが如き戦いは、時間切れになるまで延々と続いた。

 勝負は判定に持ち込まれた。
 判定を待つ間、無表情を装う月英の横顔に、趙雲はくすりと笑った。
「……何か?」
「いや、失礼をば。あの装束は、いったい如何にして用意されたのだろう……と考えたら、妙に可笑しくなってしまったのです」
 の装束のことを指しているのだろう。趙雲も、目敏くの衣装替えに気がついていた。
 月英の頬もふわりと緩む。
「……殿の話を聞きつけた商人が居りましてね。持ち込まれたものを、孔明様がお買い求めになって。何になさるのだろうと、私も思っておりました」
「丞相が」
「ええ、孔明様が」
 そうして二人、声を出して笑いたいのを必死に堪えていた。
 振り返った審判が二人の様子にぎょっとして肩を竦めるのだが、笑いを堪えるのに必死の二人は気がつかなかった。
 月英対趙雲、判定により趙雲の勝利。

「何をやっているのだ、まったく」
 あちらこちらでの試合以外の騒ぎが、劉備の居る台の上からは一望できる。
「兄者、お寒くはありませんか」
 台の下から、関羽が声がける。
「寒くはないが、その手にあるものは欲しいな」
 関羽は笑い、手にした酒瓶を軽く振ってみせた。
「上がっても構いませんかな」
「お前はもう大会を辞したのだし、構わんだろう」
 気安く来い来いと手招きすると、関羽は梯子を用意させて昇ってきた。
 関羽が台の端からぬっと顔を出すと、春花がきゃっと小声を上げて劉備の背中に隠れた。
「大丈夫だ春花、雲長は大きくて厳つい顔をしているが、お前を食ったりはしないだろう」
「何と言うことを仰られるのですか、兄者」
 他愛のない軽口を叩く二人に、春花がおずおずと顔を出す。
「酌をしてくれないか、春花」
「は、はい」
 そうして、台の上でも飲み比べと言う戦いが始まってしまうのだった。

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