湯に腰を沈めると、ぴりぴりと痺れるような痛みが走る。
 だるく重い腰を支えきれずに、盥の中で尻餅を着いてしまった。
 先に烏の行水を済ませた孫策が、ひょいと覗き込んでくるが咎める気にもならない。
「……腰、痛ぇのか?」
 少し心配そうなのは、自分が無茶をしたという自覚があってのことだろうか。
 無茶も無茶だ。
 先に趙雲と馬超に抱かれていたのを知っていたくせに、更にその時点でが不調を訴えていたにも関わらず、好き勝手にを翻弄した。
 大量の精液が留まっているだろう胎内から、とろとろと少しずつ溢れ出す感触が気色悪くてしょうがない。
 おたまじゃくしがうん億匹、妊娠したとしてもその中の一匹か二匹が受精するだけなんだから、残りのおたまじゃくしは全部死んじゃうことになるんだよなぁ。
 どうでもいいことを考え始めたら、何故か川岸に死屍累々としている鮭の姿を想像して気鬱になった。
 昨夜一晩でも相当の大量虐殺をしてしまったことになる。
 ごめんね、でも恨むんだったらこの馬鹿共を恨んでね。
 ちらりと見上げた先で、孫策は無邪気に首を傾げている。が何を考えているかなど、知らずにいることだろう。

 気絶に近い状態で眠りに落ちたを、人目のない夜の内に運び出したらしい。目覚めると、そこは孫策の室だった。宝物のようにしっかりと抱き締められていて、暖かさ以上にくすぐったさを感じて戸惑ったものだ。
 夜が明けるより早く続きの間に湯が運び込まれ、孫策がさっさと先に入った。
 問い掛けもせずに先に湯を使う孫策に、は少しむっとして上掛けの中から起き出した。腰の重い痛みと共に、朝方の冷たい空気に鳥肌が立つ。
 程なくして衝立の影から孫策が現れ、を上掛けごと衝立の中側に運ぶ。
 天井は筒抜けになっているわけだが、衝立の中は意外にも湯の熱で温められた空気を孕む。
「寒くねぇよな?」
 孫策の一言に、自分に寒い思いをさせない為に先に入ったのかと思い知らされる。
 ぞんざいな男が見せる細やかな愛情に、は何と言っていいかわからない。
 ぶっきらぼうに礼を言い、けれど脱ぐんだからと言って追い出してしまった。照れ臭かったのだ。
 大事にされている、大切にされているとわかると、嬉しいと思うよりも恥ずかしいと思ってしまう。素直になれない自分を責めたくなるが、持って生まれた天邪鬼な性質はそう容易く変質してくれそうにない。

 孫策は衝立の中に入ってくると、の背に湯をかけた。
 そのまま絹で背中を流し始めた孫策に、は自分が犬猫の類にでもなったような気がした。それだけ無造作で何でもない仕草だったのだ。
 不意に項に冷たく柔らかな感触が押し付けられた。
 ぴり、と痛みが走る。
 振り返ると、孫策が唇を舐め上げていた。満足げだ。
「……跡、着けたね……?」
 この野郎、と睨めつけると、孫策は悪戯っぽく笑った。あまりに嬉しそうな笑顔に、怒る気が失せる。周瑜辺りも、こんな心境なのだろうか。
 知らないでよかったはずの諦めの境地に、は溜息を吐いた。腰を撫で摩ると痛みが際立つ。
「……もう、どうすんの今日も試合だっていうのに、こんな……」
 孫策の心配ではない。
 優勝者が決まる今日、恐らくもその祝勝会なりに出席を要請されるだろう。立つなり歩くなりしなくてはならないのだ。この重く鈍い痛みをどう堪えるか、考えただけでも気が重い。何よりもまず、今日の会場入りをどうするかの問題がある。歩けたとしてもわずか数歩、自重も支えられないぐらいへろへろに抜けているのだ。
「大丈夫だ、俺に任せとけ!」
 戦場であればこの上もなく頼もしい言葉だろうが、こんな場合はまったく信用ならない。
 白い目を向けるに、孫策は自信満々ににっかりと笑った。

 物見高い兵士達が次から次へと押しかけてくる。
 日も上がらぬ内から会場は多くの人でいっぱいになっていた。が見たら『コミケみたいだ』と言ったに違いない。大差ない人ごみと、整列した人々の群れがあった。
 強い要望があり、試合は一試合ずつ行われることになった。闘技場は一箇所を残してすべてが片付けられ、人々はその周りにぎゅうぎゅうに押し詰められている。事故を按じたホウ統の気配りにより、地面に綱が張られて各自の立ち位置を指定されている。整列して見える原因である。
 事故が起こり次第大会は中止と言い含められているから、皆おとなしいものだ。小さなますに押し込められているにも関わらず、誰も文句一つ言わない。
「馬将軍だ!」
「姜将軍もおられるぞ!」
 今日の試合出場者が現れると、目敏い観客から声が上がり、皆一様にそちらを向いて歓声を上げる。怒号に近い、凄まじい声だ。
 それらを一身に浴びながら、馬超と姜維は緊張からかわずかに強張りを見せている。
 両人とも優勝に関わっているのだから仕方がないかもしれない。特に姜維は、自身は優勝に関わらずとも絶対に負けたくない相手だった。
「試合は、始まる前に抽選を行い試合順を定めるそうです」
 誰にともなく早口で呟いた姜維に、馬超が目を向ける。
「俺と貴公は同じ相手だ。奴には悪いが、勝ちを狙いに行かねばな」
 連戦となっても、手は抜くまい。
 特に馬超は、一度孫策と遣り合っているだけに相手の実力が身に染みてわかっている。馬上であるならともかく、互いに大地に足を下ろしての戦いであれば、常であるはずの槍の優位さが通用しない相手なのだ。
 姜維もまた、関平と同じく使いこなした武器との違和感に実力を発揮しきれなかった一人だ。それだけでないと言えばなかったが、今はそれを論じている場合でもない。
「私は、馬超殿の為に戦うわけではありません」
 普段とは打って変わって不機嫌な声音に、馬超はむっとするよりもまず呆れた。
 同じ蜀将とは言え、地位は馬超の方が上なのだ。形式格式にうるさい真面目な姜維が、己の我を剥き出しにしている。その理由を考えると、同じ立場と知りつつも恋は闇とはよく言ったものだと思う。
「けれど、呉に居られるよりは蜀に居て下さればと望みます」
 静かな遠くを見詰める眼差しを空に向ける姜維に、馬超は唇を尖らせた。
「……あの女が、むざむざ他者の意に添うものか」
 吐き捨てるような言葉に、姜維は目を見張る。
 優勝できる立場に居る馬超の言葉ではないだろう。優勝さえしてしまえば、誰憚ることなくを得られるのだ。
 唖然として馬超の横顔を眺めていた姜維の顔が、不意に泣きそうに歪み、次いで腰を折って身を震わせ始めた。
「……何が可笑しい」
 本当のことだ、とむすっとしたまま姜維を振り返りもしない馬超に、姜維は目尻にたまった涙を拭いながら顔を上げた。
「あぁ、申し訳ありません。ですが、ええ、前言撤回です。馬超殿の為にも少しだけ頑張ることにします」
「……何だ、少しだけとは」
「だって、恋敵にむざむざ力を貸すのは口惜しいでしょう。だから、少しだけです」
 姜維は笑いながら馬超の半歩前に進み出た。
 馬超もその後を追う。
「……とは言っても、全力を尽くして戦うことに変わりはありません」
 振り返った姜維が、笑みを浮かべて付け足した。
 一瞬言葉を吟味した馬超は、複雑そうに姜維を見下ろす。
「ええ、仰るとおり、殿がむざむざ賞品に落ち着くとも思えませんし! 私にもまだ、機会はありましょう!」
「……何だ、それは」
 馬岱が居れば、また敵に物資を送るような真似をしてと呆れただろう。
 姜維は解き放たれたように体を大きく伸ばし、優勝戦を見届けに来た諸葛亮の下に走って行ってしまった。
「馬超」
 背後から趙雲が歩み寄ってきた。
 怒号めいた歓声にも揺らぎもしない様に、馬超は趙雲の底知れなさを改めて感じた。西涼の錦、次代の雄として希われた己ならともかく、一身に向けられる期待を重いとも感じさせない肝の太さに呆れる。
 それとも、こんなことにはすぐに慣れてしまうものなのか。
 歓声が耳に届いていないとでも言いたげな趙雲の落ち着きぶりに、馬超は面白くないものを感じていた。
「馬岱殿は? 一緒ではなかったのか」
「春花を迎えに、朝一で屋敷を出たからな。もう城に着いている頃だろう」
 大会の始まりまでは多少時間があったが、春花の常の登城時間ではの身支度が間に合わない。髪を結うの化粧をするのはなかったが、湯浴みをするのに春花の手配が必要だ。別に馬超が手配しても良かったのだが、何とはなしに気が引けてしまう。
「そう言えば」
 ふと顔を上げ、馬超は趙雲を振り返った。
「貴公、いつから俺を呼び捨てにするようになった?」
 問われた趙雲の目が少しだけ見開かれる。
「……さて。いつからだったか……お前は私を初めから呼び捨てしていたのは覚えているが」
「うるさい、俺のことはいいんだ俺のことは」
 が来てからには違いない。
 馬超はと出会った頃のことを思い返していた。最初は呉か魏の手の者だと疑って、責めて、逆に責められて。
 遥か遠い昔のことのような気がしたが、まだ一年と経っていない。
 胸の中にしっかりとが居座ってしまったからだ、と馬超は思った。難儀な女だとも思った。手放せなくなる。
「俺が勝つぞ、趙雲」
 馬超の宣告に、趙雲は笑うだけだった。
 歓声が、不意にざわめきに転じた。
 何事かと振り仰ぐと、赤い派手な布地が目に飛び込んでくる。
「よぉっ!」
 趙雲と馬超に気がついた孫策が、気安く声を掛けてくる。
「後でなっ!」
「ま、待てっ!」
 走り去ろうとした孫策を、馬超が慌てて引き留める。
 不思議そうに振り返る孫策に、馬超はわなわなと拳を戦慄かせた。
「な、何だその格好は!」
「何って……いつもと変わんねぇぜ?」
「お前じゃないっ!!」
 馬超はもどかしげに指で指し示す。
 指差した先には、孫策の腕に抱かれたが居た。
 文官の装束でもない、といって昨日の短い裾丈の服でもない。
 趙雲は見たことがあったが、馬超は初めて見るはずだ。呉で、甘寧から送られたという赤い服に、何処から引っ張り出してきたのかやはり赤い布を巻きつけている。深く切り込みの入った裾から、の足がちらちらと見える。ある意味、昨日の格好よりも艶かしかった。
 が疲れ果てた顔で何か言おうとした瞬間、孫策はさっと自分の影に引っ込めてしまった。
「どうせ、俺が勝つに決まってっからな!」
 悪びれなくにっかり笑う孫策に、青褪める馬超と呆れて声もない趙雲が殺気立つ。
 必ず自分の物になると言わんばかりだ。呉の象徴たる赤を着せこまれたは、天を仰いで白くなった。
 馬超の再度の制止も聞かず駆け出した孫策は、悪戯を成功させた悪餓鬼のようにはしゃいでいる。
「あんた、ねぇぇぇ……」
 その手に揺られながら呆れているに、孫策は笑い返した。
「なっ、大丈夫だろ? あー、面白ぇ」
 試合も盛り上がると意気揚々と駆ける孫策に、はもう何も言えない。確かにこうして運ばれている分には、の腰が抜けているなどとは思われまい。だが、馬超のあの殺気だった顔を思い返すとうんざりした。後で責められるのはなのだ。趙雲の無言の威圧も空恐ろしい。
 ふと殺気を感じて辺りを見回すと、馬岱に連れられた春花が引き攣った笑みを浮かべている。
 春花は、この服、ホントに好きじゃないんだよね……。
 捨てろと言われた服を、後生大事に仕舞っていたのがバレてしまった。
 目の前に現れた最初の災厄に、は可笑しくもないのに顔が笑い出すのを感じていた。

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