抽選は、馬超と姜維が杯の中の数字の記された竹片を引く形で行われた。孫策の試合が二試合ある為、対戦者である馬超と姜維が引く形が自然だった。残る対戦である趙雲と尚香の組は、後に残る数字が割り当てられれば良い。二人も審判の説明に納得して了承した。
 まず姜維が引く。
 対戦者の組み合わせは決まっている。試合の数も三試合に過ぎないと言うのに、観客達は皆固唾を飲んだ。
「二、です」
 姜維が引いた竹片を読み上げ、審判に渡す。
 審判も鷹揚に頷き、渡された竹片を劉備や観客達に見せるように高々と掲げた。騒々しくざわめきが生まれる。
 続いて馬超が竹片を引く。
「……三だ」
 瞬間、どっと観客が沸き上がった。
 姜維が二を引き当てたことで孫策の不利な連戦が確定した。また、馬超が三を引き当てたことで優勝者の確定は最後までわからなくなった。
 確立は高かったのだが、実際にそう決まると観客達の興奮は激しい。足を踏み鳴らし地響きと化す。どよめきは咆哮と化して空へと轟いた。
「では、これより第一試合……尚香様対趙雲殿の試合の儀を執り行う……」
 審判の声は観客の声よりも微かなものに過ぎなかったが、観客達のどよめきは熱が冷めるが如くすぅっと消えていく。実際のところ興奮の度合いは高まるばかりで、なんとも形容しがたい緊張が空気を張り詰めさせていく。
「……うわぁ、手は抜けないって感じね」
 姜維と同じく、自身は優勝の可能性のない尚香も、場の空気に気圧されるように呟いた。
 反対側に立つ趙雲は、小憎らしいほど平静だった。目を閉じ、むしろ場の空気を楽しんでいるような節さえある。実戦に慣れ親しんだ武人の余裕だろうか。
 尚香も実戦に立ったことは幾度とある。孫家の者として、女だからと言って背中に守られているのは嫌だった。武術の鍛錬を積み、叱られても怒鳴られても無理矢理兄達に着いて行き、手柄を立て実力を示すことで己を認めさせたのだ。
 その尚香をして怯まざるを得ない空気を、楽しんでいる。趙雲と言う男は、本当に底知れない。
 あの時、趙雲の激情を尚香は見ていた。
 触れる者すべてを血の海に屠りそうな、激しい、鮮烈な美しい姿だった。
 怖くて、惹かれる。
 それが何より一番怖いと尚香は思った。怖いのに、惹かれる。火に飛び込んでいく蛾を連想する。羽を焼き、自身を焼き、それなのにどうしてと疑問に思う。
 きっと理屈ではないのだ。あの蛾は、火に魅入られてしまったのだ。
 私は、火には飛び込まない。私が惹かれたのは、緩やかなせせらぎのような劉備様だもの。
 けれど、はどうなのだろう。
 年上なのに自分よりもずっと幼い、賢いくせに不器用な『友人』に目を向けた。
 呉で贈られた赤い服を身に纏っている。春花は気に入らなかったようだが、あの子が言うほどに似合っていないとは思わない。否、とてもよく似合っていると思う。
 赤は目を奪う色だ。赤は火を思わせる色だ。
「あ、そうか」
 尚香はふと気がついた。
 が火なのだ。趙雲は、火に魅入られた蛾の方なのだ。羽を焼き、自身を焼き、それなのにどうして火に飛び込むのだろうとどうしても理解できない、あの蛾の方なのだ。
 尚香にとって、火はただ暖かい光に過ぎなかった。その火に焼かれる理屈がわからないから、惹かれる。
 深く納得すると同時に、試合開始の声が掛かった。

 試合開始の声と共に、尚香が激しいラッシュを繰り出す。
 趙雲は防衛一方に見えた。
 二人ともこれが最後の試合であり、スタミナ配分を気にしないでいい分全力を尽くすだろう。
 まぁ、趙雲は昨日悪さしてっからどうかな。
 昨日に引き続き台の上から高みの見物を決め込むは、こっそり悪態を吐いていた。
 サッカー選手など、それこそ試合開催期間中はセックスしないと聞いたことがある。『する』ことで確実にスタミナを消耗するらしい。科学的な根拠があるかどうかはともかく、理屈としては納得がいく。何せ、男の方の負担は一回に着き五キロの全力疾走マラソンと同程度という話だ。体力的にキツイことは間違いない。
 昨晩の孫策ではないが、一回で終わったことなどほとんどない。そういう意味では、昨晩は趙雲も馬超も一度で終いにしたのだから、今日の試合を意識したと言えなくもない。
 いや、そうじゃなくて、しなければいいんじゃないですかね。
 セックスレスとか欲求不満でどうこうとか言う話は、ここでは皆無だ。乱れているとまで言いはしないが、娯楽が少なく公害薬害などといったものとは無縁のこの世界、なまじ体を甘やかさないだけに体力や性欲に衰えはほとんどないのかもしれない。
 あの黄忠でさえ大会に参加したことを考えると、そう言っても過言はないと思う。何せ黄忠は、本気でを嫁にもらう気だったらしいのだ。
 嫌いじゃないけど、想像つかないなぁ。
 何気なく目を遣った黄忠と視線がぶつかり、にっかりと笑われた。
 焦りつつも笑い返して、溜息を吐く。
「どうかなされたか」
 隣に座していた関羽が、を覗き込むようにしてくる。体が大きいから、本当に覗き込むように身を屈めなければの顔が見えないようだ。
 昨日ここで劉備と酒盛りした余韻か、関羽も張飛も極自然にこの台の上に座っていた。お陰で狭いが、いい風除けにもなってくれている。口には出せないが。
 関羽の反対側には劉備が居り、関羽の後ろで張飛が酒を煽っている。張飛の反対側で春花が
せっせと炉の見張りをしていた。
 三兄弟が居てくれるお陰で春花の説教も免れている。台の上と言う下からも絶好のビューポイントで説教されるのは、甚だ見た目がよろしくない。後回しなのかもしれないが、ここでされるよりは幾分かマシだ。
「いえ、別に。……尚香様が、押しているようですね」
「趙雲は楽に裁いている。まだ、お互いに小手調べと言うところだろう」
 関羽が隣にいてくれるお陰で、試合の展開もわかりやすい。武の心得のないにとっては、某プロレス中継で名を馳せたアナウンサー並みに有難かった。解説者が居ると居ないでは、試合状況のわかりやすさがまったく違うのだ。劉備では、そこまで詳しく説明できない。弱くはないが、武神と異名される関羽と比べる方が間違っている。
「お前ぇは、どっちを応援してんだ」
 張飛が突然声を掛けてくる。酔っているのか酔っていないのかイマイチわからない赤ら顔だ。
「一応、両方応援してますけど」
「なんだ、はっきりしねぇな」
 はっきりとか、そういう話なのだろうか。
 困惑していると、張飛は江戸っ子のようにすん、と鼻を啜り上げた。
「お前ぇはな、いいから黙って星彩を応援してればいいんだよ!」
「はっ!?」
 星彩の試合ではないだろう。
 が思わず素っ頓狂な声を上げると、張飛は突然おいおいと泣き始めた。
「俺だってなぁ、あいつに武術なんて覚えさせるつもりはなかったんだよ。それをいつの間にか勝手に習い始めててよぉ、かみさんがいいって言ったなんつってよ、俺だけが知らなくてよ、娘なんざ持つもんじゃねぇよなぁ」
 何の話だ。
 さっぱりわからないが、張飛は構わずおいおい泣いている。
 劉備がを指で招く。
 昨日の膝枕以来ずっと反省していた劉備だったから、もようやく気を許して身を乗り出す。
 安堵したように微笑んだ劉備は、張飛に聞こえないよう口元に手を添え声を潜めた。
「……昨晩、星彩が張飛に、もっと強くなりたいから家を出て修行したいと言い出したそうなのだ」
 は?
 目を丸くするを、劉備はもう一度指で招く。
「『お姉さまを守りたいから』と言ったそうだ」
 ぐらり。
 眩暈がした。
 大事な娘が、同性の文官相手に熱を上げているような発言をしたら、そりゃ泣きたくもなるだろう。
 すいません。
 声に出すのは憚られたが、は心の中で懸命に謝罪した。

 間合いを取った尚香は、息を弾ませながら横目で達の居る台上を伺った。
「あ、また!」
 ちょうど劉備がに耳打ちをしているところを見てしまい、尚香の悋気に火が着く。昨日の膝枕の件でもかなり怒ったのだが、もうほとぼりが冷めたとでも思っているのだろうか。
 はその程度ではあまり怒らないようだし、隙が多いのは育った環境によるものだろうから怒るに怒れない。
 でも、もう少し何かこう、ちゃんと壁を作ってくれないと、ねぇ……君主と配下の者として、今少しの分別を期待したい。
 試合中にも関わらず、尚香は意識を逸らしていた。
 傍からはわからないだろうが、趙雲にはわかっているはずだ。しかし、畳み込む気配はない。
 間合いを計っている風を装う趙雲に、尚香は訳もなく苛立つ。
 とん、と軽く踏み込むと、目にも留まらぬ素早い連打が打ち込まれる。
 趙雲は焦りもせず、槍の柄を使って尚香の連打を防ぐ。
 顔が近付いた。
「私が、君主の妻だから?」
 手抜きだと詰ると、趙雲の目だけが柔らかく和む。
 わざと負ける気かと思うと、腹立たしくなる。
 再びの連打の後、また顔が近くなる。
「負けてあげましょうか」
 やはり、その目は柔らかく和んだままだ。
 馬鹿にして、と思った瞬間、趙雲が懐に飛び込んできた。
 槍の間合いではない、それだけに予想外でぎょっと立ちすくむ。
「結構です」
 趙雲の肩が軽く尚香の肩を突く。軽い、とん、という音とは裏腹に、尚香は完全に重心を失いよろめいた。
「勝ちます故」
 趙雲の声と同時に、身に着けた瓦だけが砕け散った。尚香自身には何の衝撃も感じられない。まるで瓦そのものが自らの意志で砕け散ったような、不可思議な光景だった。あっと声を上げる間もない。
 尻餅を着く無様は免れたが、瓦のほとんどが一瞬にして砕け散った。
 これが、趙子龍という武人。
 ぞっとするような恐怖と共に、それでも尚香は武器を固く握り締めた。
 趙雲対尚香、判定により趙雲の勝利。

 試合を終え、歓声に見送られ闘技場を降りる趙雲の後を、尚香は何気なさを装って追いかけた。
「……わざとでしょう」
 完勝することができたはずだ。わざと判定に持ち込むような真似をした。隙を作って尚香に瓦を割らせた。
 尚香には耐え難い侮蔑だ。
「そう思われるのですか」
 趙雲は尚香を振り返りもせず答えた。
「ならば、強くなることです」
 はっとして歩みを止めた尚香の視線の先で、趙雲はどんどん遠くなっていった。
 それしかない、という微かな声は、意図して漏らしたものではなかっただろう。尚香に聞かれたとも思っていないかもしれない。
 その言葉に趙雲の煩悶や苦悩を垣間見た気がする。
 尚香はただ、その場に立ち尽くして趙雲の背を見詰めた。強くしなやかな、鍛え上げられた鋼を思わす後姿だった。同時に、何処か寂しい、近寄りがたい孤高さをも感じた。
 趙雲は一度も振り返らなかった。

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