大歓声が沸き起こる。
 趙雲と尚香の時の歓声も凄かったが、この試合の歓声には敵わないだろう。
 何となれば、怒号が混じっているからだ。
 孫策は普段のへらへらとした笑いを引っ込め、代わりにふてぶてしいまでの自信に満ち溢れた顔で姜維を睥睨している。口元に笑みは浮かんでいるが、目の前の敵をどうやっていたぶってやろうかと舌なめずりしているような、そんな不埒な笑みだった。
 対する姜維は強い光を目に宿し、口元を引き締め孫策を睨めつけている。幼さの残る顔が凛々しさを際立たせ、一段と男振りを高めている。
 蜀対呉というだけではない、とは呆れつつ二人を見下ろしていた。
 孫策は、突然姜維に向け指を突きつけた。
「負けるぜ、お前」
 返す指で、とん、と自分の胸を突く。
「俺にな!」
 どぉっと波のような歓声と怒号が沸き立つ。
「孫策殿っ、頑張って下さい!」
「姜将軍、あんな奴のしてやって下さいっ!」
「兄様ー、頑張ってー! でも負けちゃってねっ!」
「伯約様、負けないでー!」
 声援は様々だが、蜀の地にあって孫策にこれだけ声援が送られるのも凄いことだ。この大会だけで、孫策は確実にファンを増やしている。強さと人好きのする魅力を兼ね備えている孫策だからかもしれないが、それにしても凄い。
 その孫策自らが正義のヒーローvs悪の組織幹部めいた演出を行っているのだ。盛り上がるわけである。
 せっせと大会を盛り上げる孫策に、はそのマメさを執務に向けてくれたらと渋い顔である。周瑜ではないが、呉の未来を案じたくなる。
 声援が凄過ぎて、審判の声も聞こえない。
 いつまで経っても試合が始まらないから、声援は更に過熱していく。
 堂々巡りだ。
 その時、孫策と姜維が同時に手を掲げた。打ち合わせでもしたかと思うほど、まったく同じタイミングだった。
 闘技場の周りから感染するように、声が、音が消えた。
 風が吹きぬけたように静寂が訪れ、面食らった審判はおろおろと試合う二人を見比べると、自棄になったように号令を発した。
「行くぜ!」
 孫策は余裕を見せることもなく、突風のような勢いで姜維に向かっていく。
 この後馬超戦を控えているから、体力を温存させる為にも自分からは動くまいと見ていた者がほとんどだっただけに、これは意表を突いた攻撃と思われた。
 しかし、姜維は見抜いていたといわんばかりに槍を斜めに構え、孫策の乱打を尽く打ち弾いた。
 暴風雨のような滅茶苦茶な孫策の攻撃を耐えしのぐと、円を描くようにして孫策の胸元をこじ開ける。
 腕を弾かれ、胸元の瓦を防ぐことも叶わず砕かれる……と思った瞬間、孫策の体が姜維の視界から消えた。
 背を柔軟に反らせて姜維の攻撃を逸らした孫策は、倒れる前に手を着き、それを支点に自ら体を捻りそのまま姜維の足元を薙ぐ。防御から流れるように攻撃に転じる身の動きに、誰もが手に汗した。
 対する姜維も負けてはいない。高く上に飛び上がることで孫策の蹴りを避けた。
 だが、それは一時しのぎに過ぎない。上に飛んだからには降りてくるのは自明の理であり、不用意に飛んだことで姜維は隙を作らざるを得なくなった。
「無用心だぜ!」
 鋭く空気を切り裂く蹴りが姜維目掛けて放たれる。
 しかし、姜維は宙で反転すると孫策の蹴りをずらして避け、槍を支点に孫策の間合いから飛び退いた。
 連続していた攻防に間が空く。
 空気を欲して一瞬人々の口が大きく開き、次の瞬間にはけたたましい歓声が坩堝と化して空気を揺らす。まるで戦場のような昂揚した空気に、季節のもたらす寒さを皆が忘れた。

 轟々と響く歓声に、は胸が苦しくなってきた。
 描きたいと思う衝動をも凌ぐ熱気に、は呼吸が出来なくなるような恐怖感を覚えた。

 不意に名を呼ばれ、ははっと我に返った。
 深みのある落ち着いた声は劉備のものではない。
 関羽だった。
 同時に、何でこんなに驚いたのだろうと疑問にも思った。
 関羽の分厚い手の平に、優しく肩を撫でられる。撫でられるたびに逆立っていた神経が落ち着くような気がした。
「……よし、落ち着いたようだな」
 にこりと関羽が笑い、あら珍しいとは目を丸くした。
 わかった。
 今まで、どちらかと言うと敬語寄りの固い言葉使いが、急に張飛や関平に向けられるような親しげなものに転じていたのだ。それが違和感を生み、必要以上に衝撃を与えていたのだ。
 当の関羽は気がついていないらしく、を見返す目が訝しい。
「な、何でもないです。有難うございました」
 へこりと頭を下げると、関羽は鷹揚に頷いた。
「そなた、どうも事にのめりこむ性質にあるようだな。悪いことではないと思うが、今少し己をしっかりと保たねば身が持たぬぞ」
 関羽の言う通りかもしれない。
 はへどもどとして頭を下げた。
「そーだ、お前ぇがあんま危なっかしいから、うちの星彩なんかもお前ぇに引っ付いてねぇと心配になるんじゃねぇか。もっとしっかりしろや」
 翼徳、と関羽に窘められ、張飛は首をすくめた。
 がむにゃむにゃ言いながら謝ると、張飛もまた口の中でごにょごにょと言い繕っていた。
「はっきりせぬか、翼徳」
「……だーからよ、そんな、俺なんかに謝ってるからいけねぇんだって、俺ぁ言いたいんだよ!」
 もっと、厚かましく憎たらしい口の一つでも聞けばいい、あの諸葛亮の珠だってんなら。
 調子が狂う、と不平口を締め、張飛はごろりと寝転がった。
「仕方のない奴だ……しかし、翼徳の言う通りでもある」
 関羽の重々しい口振りにかかれば、否やはない。は思い切り良くこくこく頷いた。
 ふと背中の方を見遣れば、劉備が胡坐に頬杖と大層不貞腐れた態度でそっぽを向いている。顔の向きは試合の方に向いていたが、目線は何処か遠くにいってしまっている。
「玄徳様?」
 が恐る恐る声を掛けると、面白くなさそうにちらりと横目で見返してきた。
「……雲長の、言うとおりだ」
 どうも、関羽に言いたいことをすべて言われてしまったことに不貞腐れているらしい。
 関羽は困ったように髭を撫で下ろし、は劉備のわがままに、逆に可愛らしさを感じて吹き出してしまった。

 試合は過熱していく一方だった。
 木製の武器は相手の命を奪わぬようにと軽い材質のものから作られていたが、それでも当たればそれなりに痛い。瓦を割らせぬようにと庇えば、どうしても己の身を盾としなければならず、孫策の体にも姜維の体にも次第次第に痣が増え重なる打撃に色を濃くしていった。
 制限時間はもうすぐいっぱいになるはずだが、互いに完勝以外は勝利にあらずとばかりに攻めの手を緩めることはない。
 当たり損ねの槍が孫策の顔を切り裂いた。丸く削られた槍の先も、孫策のトンファーが弾き返す内に抉り削られ、またひびが入って砕けている。その一部が柔らかい頬の肉を削いだのだろう。
 孫策は気にした様子もなく手の甲で流れる血を拭うと、嬉しげににやりと笑った。
 姜維は、自分と同じくらいには疲れているはずの孫策に、どうしてそんな余裕があるのか不思議でたまらない。
 技量で言えば、確かに孫策は槍の有利を打ち消してしまうほど武芸者には違いない。しかし、その為には相応の体力を浪費しなければならないはずだ。
 槍の届く範囲に死角はない。
 手元に潜りこめば穂先からは逃れられるかもしれないが、槍の使い手とてそんなことは先刻承知なのだ。柄を利用し、相手をいいように突き倒しひれ伏させ餌食にする技など、幾らでも持ち合わせている。
 それさえも防がなくてはならないのだから、孫策の疲労はもはや極限に近いはずだ。
――そうまでして、勝ちたいか。
 先の試合で趙雲が勝利を収めた。これで趙雲の勝ち点は28となり、月英を上回った。趙雲を上回るには、姜維と馬超を打ち倒さなくてはならない。どちらか一人にでも負ければ、孫策の勝ちはないのだ。
――だが、私から勝ちは奪わせない……!
 姜維が吠え、孫策に打ちかかる。
 孫策の足元が揺れ、膝ががくんと落ちた。
 姜維はその隙を見逃さなかった。渾身の力を振り絞り、孫策に打ち込んだ。
「甘ぇよ」
 俯いた孫策の口元だけが姜維の視界に映り、その笑みに歪む形を見た瞬間、突然真っ白な強い光が瞬き激しくぶれた。
 肩の辺りから熱い衝撃が全身に広がり、胸が焼けるような痛みに口を開いた。
 息が詰まって呼吸が出来ない、と思った瞬間、口の中に小さなかわらけが飛び込み、むせた。
「……勝者、孫策殿!」
 審判の声が耳の中に響く。
 胸にあった最後の瓦が、孫策のトンファーによって粉々に砕かれたことを、姜維は知った。
 今までよりも更に激しい興奮と歓声が天に轟く。
 負けた。
 そう思った瞬間、姜維は闘技場の台上を拳で殴りつけていた。拳が割れ、鮮血が飛び散る。
「……止せ止せ」
 ぜぇはぁと荒く息を吐く孫策が、くたびれ果てて腰を降ろし、言い放つ。
「んなことして、使い物にならなくなったらどーすんだ。ついでに、俺ぁ今、ものすごく疲れてんだ。いらねぇ面倒かけさせんな」
 ははは、と笑う声も何処か上擦っている。いかにも辛そうだ。
「畜生、けっこー強ぇじゃねぇか」
 文官上がりの可愛い坊やかと思ってたと揶揄され、姜維はかっとして怒鳴り返す。
「私は元々武官なのです! 文官の執務は、たまたまそちらにも長じていたと、ただそれだけで!」
「はぁ、何だ、要するに周瑜と似たようなもんか。畜生、顔に騙された」
 長じていたとは実に驕り昂ぶった物言いだが、姜維が口を押さえて赤面しても、孫策は疲れ果てて気にも止まらなかったらしい、ただ荒く息継ぎしながら軽口で返してきた。
 それにしたって、顔は生まれつきのものなのだから口に出すのは失礼と言うものだろう。第一、美周朗と名高い周瑜と言ういい見本が側に居ながら、顔で判断しようという孫策が間違っている。
 姜維が怒鳴りつけようとした時、肩を抑えられた。
「約束をよく守ってくれた」
 見上げれば、日に透けた銀の房が煌く。
「次は、俺の番だな」
 錦馬超、満を持しての登場に、孫策はさすがに苦笑いを禁じえない。
 それでも笑って立ち上がると、深呼吸して構えを取った。
「さぁ、行くぜぇっ!」
 最後の試合が始まろうとしている。

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