身構えた孫策を横目に、馬超は姜維を下がらせるよう指示を出した。
 拳から血が濡れ濡れと滴っている。孫策に与えられた傷よりもよほど深い。
 一番深いのは、矜持に付けられた傷だろう。
 姜維は差し出された手を敢えて押し留め、自らの足で立ち上がった。膝ががくがくと揺れている。疲労の極みにあることを告げていた。
 けれど、姜維は自らの足で闘技場を降りることを選び、自らにそれを課した。無様を見せまいとする姿は却って痛ましかったが、観客からは惜しみない拍手と賛辞が送られた。

 それらを見ながら、趙雲は納得した。
 これが諸葛亮の目当てだったのだろう。兵士達に、己達を率いている将の姿を焼き付け、忠誠を深くまた新たにする。戦場では将達の武を刮目する機会は少ない。自分を守り敵を屠るのが精一杯だからだ。
 だから、このような武道大会は将の武をひけらかす絶好の機会なのだ。極めた武は舞の如く華麗に美しく、兵達の目に焼き付けられただろう。
 死への恐怖が勝れば、死の確率は高くなる一方だ。それより先にわずかでも強く惹かれる存在さえ与えられれば、それが兵達の生への拠り所と化す。死ぬ確率が低くなれば、次第に強い軍になるのは当然の理屈だ。
 戦場の経験は人の心を鋼と化す。同時に虚ろにしていく。屠り屠られることに躊躇いのない魂は、纏う肉を強者に仕立てることだろう。
 経験と言う名の慣れを兵に与える為の、下準備の策なのだ。
 生きることは、死ぬことよりは悪くはないと思う。諸葛亮を詰るつもりにはなれない。
 だが、何故か寒々しい心持ちにさせられた。

 姜維が闘技場を降りると、馬超は孫策に向き直った。
 やる気に水を差された形の孫策は、やっと始められるかと再び気を練る。
「お前もだ」
「あ?」
 孫策は間の抜けた声と共に顔を顰める。
 馬超に槍を構える気配はない。
「傷の手当をしろ。怪我人と一騎打ちをしてのけるほど、俺は非道ではない」
 孫策の頬は裂けたまま無残な赤褐色に乾いていた。よく見れば体のあちこちに傷が残っている。
 溜息と共に構えを解いた孫策は、馬超を小馬鹿にしたようにトンファーの先を向けた。
「お前、戦場でも同じこと言う気か?」
 馬超の眉がぴくりと跳ねた。
 孫策はそれを目に留めながら続ける。
「俺が連戦になることは、くじ引いた時点で決まってたことだろうが。お前がどう思おうが、連戦した俺と戦るってことに変わりはねぇんだぜ? それとも、休憩させたらチャラだとでも思ってんじゃねぇだろうな」
 馬超の眉がぴくぴくと続けざまに跳ね上がる。
 いよいよ皮肉げに口元を歪める孫策に、馬超の手に力が篭る。
「ま、俺に負けた時の言い訳ぐらいにはなるわな」
 みしり、と音をたてて槍がきしむ。
 力を入れ過ぎた馬超の指が、手の平に鋭く食い込んでいるのが近くの者からはよく見えただろう。
 馬超の槍が大きく旋回し、槍の柄の尻を足元に強く叩きつける。
 やっとやる気になったかと、孫策は構えを取った。
「―――っ!!」
 馬超の怒声が場に響き渡る。
 予想外の人物の名に、孫策含めその場の全員が呆気に取られた。
「この馬鹿の手当てをしてやれ! それから審判、新しい瓦を用意しておけ……これは殺し合いではなく試合なのだと理解できずにいる、この馬鹿の、な!」
 言い捨て馬超は背を向けた。
 これ以上の言い合いは無用だと言わんばかりに、足音も猛々しく闘技場を降りていく。
 ぽかんとする孫策に、早々に立ち直った審判は高らかに一時休憩を申し渡した。
「お、おい、ちょっと待て」
 慌てたのは孫策である。やる気満々だっただけに、いきなり休憩と言われても困惑するだけだ。
 闘技場に駆け上ってきたが孫策の腕に飛びつき、ぐいぐいと引っ張る。
「おい……、なんだよ、待てよ、俺ぁ……」
 孫策が如何に疲れていようと、少し足を踏み締めればの意のままになるものではない。それでもは懸命に孫策の腕を引っ張り続けた。
「うるさい黙れ、あんたの言葉、そっくりそのまま返してやる。あのままやってあんたが負けたら、休憩もなかったからだって言い訳になんでしょーよ」
「俺は、そんな言い訳しねぇ!」
「あんたがしなくても、誰かがする。そっちは孟起が引き受けてくれるって言うんだから、ちゃんと手当てしなさい」
 孫策も馬超も言い訳をするような男ではない。だが、人は己が好奇心を満足させる為に好き勝手に推測を語るものだ。勝ったのはこうだったからだ、負けたのはこうだったからだと、それこそ自分達のいいように言い合うことは予想がつく。
「俺は、そんなの気にしねぇ」
「私が嫌なの」
 孫策は口を噤んでを見下ろした。も引っ張るのを止め、孫策を睨めつけた。
「……私が嫌なの。あんたがそんなぼろぼろの格好で戦ってんのもヤダ。武器もちゃんと変えて。ルール忘れるくらい頭に血が上ってるなんて、あんたらしくない」
 そんなのは、嫌だ。
 の目は険しい。嫌悪感に満ちている。何処か、泣き出しそうな空気を孕んでいた。
「……わかった」
 孫策が折れた。
 ふっと緩んだ顔つきに笑みが浮かぶと、の顔も同じように緩む。
 鏡がないので確証はなかったのだが、自分は今、と同じような険しい顔をしていたのだろうかと孫策は考えた。
 それはまた、ずいぶんとみっともなかった気がする。確かに自分らしくもないと、孫策は自嘲した。
 に引かれるまま歩き出していたのを、背後から覆い被さるようにしがみつく。
「ぎゃあ、重い、汗臭いっ!」
「何だよ、痛ぇんだよ、手当てしてくれんだろ?」
 騒ぎに勢い良く振り返った馬超が、孫策を怒鳴りつけたが孫策は知らぬ顔だ。
「手当てだけだ! 触るな、貴様!」
「いやぁ、足がもつれちまってよ、悪ぃな!」
 絶対嘘だ、と誰もが呆れ果てるが、孫策は機嫌よくの体を触りまくっている。
「伯符さぁ」
「ん?」
 が孫策を振り返り白い目を向ける。
「試合終わったら、ぶん殴るからね」
「……お前、それ本気で言ってるだろ」
 当たり前だ。
 の剣幕に恐れをなしたのか、孫策は不埒な手をそろそろと引き上げた。
 るーるって何だ、との意識を逸らしにかかる。
 趙雲は、やたらと騒がしい二人を苦笑いして見送った。

 闘技場の端でいいと言うのを、無理矢理近場の室内に引っ張り込んだ。
 着いてきた春花に湯浴みの準備を頼むと、は濡れた手巾で孫策の顔を拭い始めた。
「……ほら、汚い」
 土埃と血で汚れた手巾を見せると、孫策は唇を尖らせた。
 憎たらしいと力を篭めて拭うと、孫策が悲鳴を上げる。
「いて、いてぇよ!」
「ほほう、痛いのか」
 手巾を下ろしたは、代わりにそっと舌を押し付けた。
 孫策が黙り込む。
 柔々とした舌の動きに、時折孫策の皮膚が跳ね上がる。舌先から錆び鉄の味が染み、やがてぬるりと濃い液体が絡みつく。構わず舐めていると、それもやがて薄れた。
 が身を離すと、孫策の頬の傷は薄い桃色に変わっていた。裂けた皮膚から覗く肉の色だろう。頬の色の方がよほど赤かった。
 まだ黙りこくっている孫策に、は傷薬になる薬草を手の平で磨り潰しながら目を向けた。
「……痛かった?」
「……痛かったっつーか……その……」
 気持ちよかった、と言う孫策は、珍しくも酷く恥ずかしそうだった。
「勃った?」
「たっ……勃つわけねぇ、馬鹿、何つーこと言い出すんだよ!」
 生憎天邪鬼に出来ているは、普段は見せない孫策の一面に嗜虐心をくすぐられて仕方なかった。笑いながら頬の傷に薬草を擦り込むと、孫策が痛いと言って眉を顰める。
「試合の時は邪魔になっちゃうだろうから、外してもいいけど。それまでは、しておきなさいね」
 上からぺたりと膏薬を貼り付け、よしよしと頭を撫でると、孫策は不貞腐れつつものいいようにさせた。
 春花は思ったよりもずっと早く戻ってきた。
 何でも、劉備の心遣いで湯の準備がしてあったのだという。いい君主だ。
 孫策の着替えも用意され、ではと退室しようとしたを孫策の手が引き止めた。自分の背中を流せと言う。
「……自分でしなさい、それぐらい」
「ヤダ、流してけ」
 駄々をこねる孫策に、春花が眉を吊り上げる。
「孫策様、わがままも大概になさいませ!」
 怒鳴りつければ、孫策も肩をすくめて手を離す。……はずだった。
「ヤダ」
 頑なに拒絶する孫策に、春花も一瞬言葉がない。そんな春花に、孫策は更に畳み掛ける。
「そんなら春花、お前も俺の背中流してけ」
「……きゃあああああああっっっ!!」
 言うなり腰留めを外し始めた孫策に、春花は悲鳴を上げて飛び出していってしまった。
 は孫策にしっかりと腕を取られているから、後を追うわけにもいかない。片手で器用に下穿きを下げる孫策に、目を点にするばかりだ。
「……伯符、ねぇ……」
「あ?」
「春花、女の子なんだから……」
 気を使えと言い掛けて飲み込んだ。女の子なんだからで通じるような孫策ではない。現に、の前だと言うのに平気で股間のものをぶらぶらさせていた。
 頭が痛い。
 自棄になったは、孫策の腕をむしり取り自由になるとそのまま孫策の服を剥がしにかかる。
「脱げ、さっさと脱いでさっさと行け」
「あ、お前またそんなやらしーこと言いやがって」
 それは、孫策の心が汚れているからいやらしく聞こえるのだ。
 無視して孫策の服を剥ぎ取るに、孫策は何が楽しいのかげらげらと笑い転げた。
 濃い痣が幾つも浮かぶ肩や腕に一瞬眉を顰めるが、何でもない振りをして湯浴み用の盥に蹴り出す。座らせて背中から湯をかけてやると、孫策は一瞬身を竦めた。
 汗を拭い取るように手巾で擦ると、孫策がぽつりと呟いた。
、俺が勝つからな」
 何と返答していいかわからない。そも、孫策は背中を向けているから、どんな顔をしてどんな気持ちで言っているのか予想もつかない。思わず口篭った。
 孫策はそれきり、何も言わなかった。

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