孫策は新しい装束を着込むと、に笑いかけて闘技場に戻っていった。
 いつもの、あの笑みだ。ほっとしたような心持ちになって、は拳骨を作って肩を叩き、自らを慰労した。
 戦場ではいつもあんななのだろうか。
 この世界に来て一年近くになるが、未だに戦場には行ったことがない。似たような修羅場には遭遇していたし、行きたくもなかったからいいのだが、それでもいつかは行かなければならなくなるかもしれない。
――行きたくねー……。
 穏やかで賑やかな日々と、忘れっぽい(努めて忘れるようにしている)お気楽な性格がそうさせるのか、蜀は他国と戦をしているということをつい忘れさってしまう。昨日戻ったばかりの月英とて、ただ単に遠出してきたわけではない。反乱があり、それを静定してきたのだ。
 戦を、してきたのだ。
 嫌だ。
 人が傷つくのは、死ぬのは、嫌だ。
 想像だけでも染み入るような悲しみが沸く。
 現実に戦が起きている。実感は伴なわずとも、が知らないだけで本当はあちこちで戦が起きている。
 何ができるだろう、と考えれば途方にくれるだけだ。けれど、せめて目の前にいるこの人達だけは、死なないように。
 虫のいい話だが、半ば本気で希っていた。

 孫策が戻り、試合の開始を今か今かと待ちわびていた人々は一斉に沸き立った。
 実質、これで優勝者が決まる。
 孫策が勝てば孫策の単独優勝。引き分ければ孫策と趙雲の同点優勝。負ければ、馬超と趙雲の同点優勝となる。
 華やかな武技の数々を目の当たりにしてきた人々にとって、例えどの結果になったとしても、この大会に相応しい素晴らしい結末に思えた。その期待分、歓声は激しく渦のように巻いて、最終決戦を迎える両者に送られる。
 対峙する孫策と馬超は、静かに互いを見合っていた。
 口元には穏やかな笑みが刷かれている。
「……いつもの貴様に戻ったようだな」
「おう、お陰様でな」
「何もしなかったろうな」
「うんにゃ、した!」
 にやっと笑う孫策に、馬超がさっと青褪める。
「すげぇ、気持ち良かったぜ。ありがとな!」
 あくまで悪びれずに礼まで言い放つ孫策に、馬超は唇を噛み締めその肩を怒らせた。
「……いい度胸だ!」
 互いに中央に進み出ると、睨みあう。不意に右手を掲げると、がつんと腕先をぶつけ合った。
「全力を持って貴様を倒す!」
「おお、やれるもんならやって見やがれ!」
 ふっと笑いあうと、勢い良く背後に飛び退る。
 得物を構える二人に、審判の号令がかかった。
「いざ!」
「行くぜ!」
 駆け出す二人に、観客もわっと声を上げた。

 目まぐるしい攻防に、は息つく間もない。
 そんなの様子を見て、隣に掛けていた尚香が呆れる。
「遊んでるだけよ、あれは」
「えぇっ、そうなんですか!」
 傍から見ると、物凄い速さで遣り合っているようにしか見えない。
 が戻った時、何故か尚香までもが台上に座り込んでいた。よりにもよって劉備を押し退けて、劉備の座っていた敷物を強奪している。いや、強奪したのではないかもしれないが、劉備が苦笑いしてを出迎えたところを見ると何とはなしにそう思えたのだ。
 尚香は手招きして、を自分と関羽の間に据えてしまった。
 そして今に至るというわけである。
「しかし、恐るべしは孫策殿よ」
 関羽の言葉に、は小首を傾げて振り向けた。
「孫策殿の武器は、関平と同じく重量を持って威力と為す。否、関平のように刃でない分、孫策殿の武器は更に不利であろうな」
 トンファーが強力な打撃武器であることに間違いはないが、その最たる威力を発揮するには重量が必要だ。相手の攻撃を弾くにも、その重量を利用して弾き飛ばさなくては結局使い手の腕に負担を掛けるだけになる。
 攻撃となれば、尚のことだ。槍のように威嚇して敵との距離を置くこともできなければ、剣のように薙ぐこともできない。ただ打ち据えることのみに重点を置いた武器であるトンファーでは、薙ぐことも突くことも不可能なのだ。
 この大会、最も不利なのは孫策だったのかもしれない。しかし、孫策は勝ち進んだ。今、の目の前で優勝争いに没頭しているのだ。それが他ならぬ孫策の強さの証といえよう。
「兄様は、単純なのよ。不利とか有利とか、何も考えてないの。だったら引っくり返しゃいいじゃねぇかって、もう勢いだけなのよ」
 大袈裟な口真似を披露した後、周兄がどれだけ気苦労しているか、と尚香はうんざりと呟いた。
 わがままの度合いでは尚香も負けてないと思うが、は敢えて口にしなかった。
「伯符らしいですね」
 それだけを笑って告げると、尚香もわずかに笑った。
 孫策が孫策らしい。たったそれだけで、呉という国がどれだけ強健になるか。考えずともすぐにわかることだった。
 蜀と、争わせてはならない。
 やはり、呉に行こうとは決意した。
 何ができるかわからない。何もできないかもしれない。それでも、何もできなくても行こうと決めた。
 目の前の人達が傷つかないように。
 尚香と劉備を見遣ると、不思議そうに、だが微笑み返してくる。
 目の前の人達が死なないように。
 関羽と張飛を見遣ると、訝しげにを見詰め返してくる。
 は、ただ黙って微笑んだ。

 攻防は続いていた。
 馬超が槍を突き出せば、孫策はトンファーを上手く使い軽くあしらう。
 目にも止まらぬ突きも、武の為に鍛え上げられた視界にははっきり捉えられるものらしい。
 息をも吐かせぬ連打が止まる一瞬の隙を突いて、孫策が馬超の懐に飛び込んでくる。横薙ぎの蹴りは鋭く馬超のわき腹を抉ろうとするが、馬超は槍の柄のしなやかさを利用してふわりとかわす。
 勢いを殺さず、逆に蹴りを繰り出してくる馬超の足元に孫策が潜り込み、今度は垂直に蹴りを突き上げた。間一髪かわした蹴りは、しかし馬超の頬の線をかすめて朱の線を引いた。
 構わず、槍を旋回させて孫策の足を絡め取ると、勢い任せに吹き飛ばした。
 孫策は体勢を崩しかけるのを頑健な筋力を使って無理矢理ねじまげ、ついでとばかりにトンボを切って馬超の間合いから逃れた。
 舞うような武技、あるいは猛々しい舞が止まるのを嫌ってか、二人は足を止めずに再び間合いを詰める。
 馬超の突きが繰り出され、孫策は半身を捻ってそれをかわす。
 背中合わせに重なる二人の姿は、まるで歌舞伎で大見得を切るようだ。

 一枚の錦絵を思わせる赤金と黒緑の取り合わせに、は泣き出したくなった。
 悲しいわけではない、無論嬉し涙と言うわけでもない。
 感極まると、勝手に流れるものなのだと初めて知った。
「ああ、綺麗……」
 の言葉に、尚香は眉を顰めた。
「綺麗? 兄様が?」
 承知しかねるとばかりに首を傾げる。
 試合に夢中になっているは、尚香の声も耳に入らないのか返事もしない。
 関羽はかすかに笑い、の代わりとでも言うように尚香に答えた。
「武を極めれば、その動きは洗練され美しくも見えましょうぞ。の申すとおり、孫策殿の武は、真に美麗と言えましょう」
「……そう? 私には……悪ふざけに夢中になっている子供にしか見えないけれど」
 尚香の言葉もまた的確に二人の戦いを示していたから、関羽は笑みを浮かべて口を閉ざさざるを得ない。
 孫策も馬超も、好敵手と遣り合えることに喜びを感じ純粋に戦いを楽しんでいる。
 そこに国家天下の重い枷はない。ただひたすら自由奔放だった。
「これは、辞退は早過ぎたやも知れぬ」
 関羽とて一武人なのだ。一途に武を昇華させる戦いに、心惹かれぬわけがない。
「……ち、俺だって、相手が星彩でさえなけりゃ……」
 いつの間にか起き出した張飛が、不貞腐れて唇を尖らせながら呟いた。
 あんな風に、何も考えずに戦えるなら。
「戦えばよかったのに」
「何言ってやが……」
 振り返った張飛が、ぎょっと目を剥く。そこに星彩が居た。
「私だって、父上とあんな風に戦ってみたかった。私では力不足だったろうけれど」
 関平がうらやましいとじろりと睨まれ、張飛は大きな図体を小さく縮こまらせた。

 戦いは尚も続く。
 馬超の槍が孫策の足元を薙ぎ、旋回した勢いを利用した馬超は起き上がり様を狙って斜め上を薙ぐ。孫策はトンファーを側面に構え、槍の勢いに逆らわず吹っ飛ばされた。
 闘技場から落ちるかと孫策が飛ばされた方向の観客から悲鳴が上がるが、孫策は空中で身を
捻って転落を免れた。無駄に力を篭めなかっただけ、打撃の衝撃のほとんどを殺している。
 馬超は苦笑いを浮かべた。
 姜維と孫策の激闘は、脇からずっと見ていた。互いの意地を掛けた戦いに、両者共に全力を尽くしていた。普通の兵なら、とっくに足に来ていておかしくないほど疲労しているはずだ。
 休息の時間は与えたが、それさえ半刻に満たないわずかの間である。全回復とは行かないはずだ。
「化け物か」
 笑う馬超に恐れはない。押している実感はなくとも、均衡する武と純粋に遣り合える機会を得られた昂揚が、馬超を怯ませはしなかった。
 対する孫策もまた、笑っていた。
 体は疲れ切っている。腕が、可笑しいほど重く感じられた。足も同様だ。立っているのは意地に過ぎない。
 否、馬超が強いから立っていられる。馬超の強さが、孫策の武に共鳴して、無様を許さないのだ。
「皮肉だよな」
 もし馬超がこれほど強くなければ、あるいは孫策はとっくに負けていたかもしれない。
「時間がないな」
「ああ、そうみてぇだな」
 闘技場の隅に立つ審判が、時間を計っている係を気にしてちらちらと目を向けている。
「延長といきたいところだが、それも未練だ」
「すっきり終わらせた方が、気分がいいってもんだぜ」
 互いに笑って、頷きあう。
 次の瞬間、同時に四肢に力を篭め気を溜める。裂帛の気合が、会場に低く轟いた。
「最後の一撃……!」
 観客の誰かが興奮して叫んだ。
 そんなことはわかっている、と誰もが思った。
 黙っていろ。
 黙って見ていろ。
 極上の、天下一品の最後の激突に、言葉などいらない。
 光が弾けるような衝撃があり、そして試合は決着した。

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