馬超の腕には真っ白な洗い晒しの布が固くきつく巻きつけられている。首に大きな布を回し、動かさないように固定されていた。
 痛々しくて涙が出そうだ。
 馬超は、そんなを見下ろしてかすかに笑う。労わるような優しげな笑みに、それは馬超にこそ向けられるものだろうとやるせない憤りが沸く。
「仕方ないだろう、試合とは言え真剣勝負だった。あいつの方にはついていなくていいのか」
 は無言で首を横に振った。
 付いていてやりたいのは山々だったが、孫策は未だ意識が戻らない。怪我はなく、頭を打ったわけでもないから大丈夫だと医師のお墨付きがついていることもあったが、閉会の辞に合わせて優勝者の発表もあるから、賞品たるが居なくては話にならないと連れ出されてきたのだ。
 目が覚めた時に側に居てやりたいとも思ったが、馬超の怪我を案じる気持ちにも嘘はない。
 そっと手を伸ばすが、触れることはない。包み込むように手を翳すと、手の平の内側にひんやりとした感触があった。湿布でも張られているのかもしれない。
「……痛い?」
 痛くないはずがない。折れているのだ。
 利き腕でないのが唯一の幸いだったが、自分の腕まで痛くなってくる気がした。
 を見下ろす馬超の口元が優しい弧を描き、込み上げる笑いを必死に耐えている。
「お前が笑わせてくれるからな。そんな顔をするな、この程度、何と言うほどのことでもない」
 馬超の言葉には猿のように喚きたてた。込み上げる笑いを耐え切れなくなった馬超が、思い切り吹き出す。
「あっ、たた、、頼むから笑わせてくれるな!」
 笑うと響いて痛むのだからと言う馬超に、は膨れ面を作る。それが可笑しいと言って、馬超は更に笑い出した。
 もう知るか、とが不貞腐れると、ちょうど係の者が呼びに来た。
「じゃあね、私行くから」
「ああ、後でな」

 が闘技場に上がると、歓声が上がった。
 既にこの熱戦を披露した選手達が居並んでいる。孫策と馬超、趙雲のみが居ない。
 大会を閉じる挨拶が始まった。
 祭りの後の寂寥が、早くもそこかしこに滲み出ていた。
 美しい、激しい闘いは既に過去のものと変わり果てていた。つい先程までの鮮やかな武技の数々が、記憶の中で残滓と成り果てていくのを止める術はない。
 見ているだけに過ぎない祭りだったが、いつまでも見ていたいと希うのはわがままなのだろうか。
 皆が皆、同じ気持ちであったに違いない。
 もまた、同じ思いでいた。
 戦でない戦い、それは人の目を奪う華麗なものだった。華麗に過ぎた。烈火のような激しい舞に昇華した武は、誰をも魅了した。
 もう見られないのか。
 寂しい。
 ならば、いつかまたこんな祭りが開かれるように努力しよう。
 蜀だけでなく、呉も、他の国をも巻き込んで、皆が馬鹿騒ぎに興じられるように。
 ああ。
 楽しかったね。
 万感の思いを篭めては観客達に微笑みかけた。
 優勝者の名が朗々と響き渡る。
「前へ、出でられませい!」
 わっと盛り上がる歓声と共に、闘技場の端と端から二人の将がゆっくりと上がってくる。
 小賢しいながらも憎い演出に、観客から二人に向け惜しみない拍手と賛辞が送られた。
 一人は、趙雲。
 今一人は、馬超。
 の前を通り過ぎる時、馬超はをちらりと見遣って微笑んだ。もそれに応え、微笑む。
 馬超が勝ち、孫策が負けた。よって、優勝者は趙雲と馬超の両者となった。
 激戦がの胸の中で蘇る。

 最後の激突は、闘技場の端と端から駆け寄りぶつかり合い激しい衝撃をもたらした。
 瓦が幾つか弾け飛ぶほどの衝撃の後、最後の一撃が繰り出される。
 孫策のトンファーが、馬超の左胸に取り付けられた瓦を狙って繰り出される。最後の瓦だった。衝突によって他の瓦は砕けてしまっていたのだ。
 瞬時の判断は冷静な武術者の目によるものか、それとも単に目についた獲物に喰らい付こうとしただけなのか、孫策が意識を取り戻さない限りはわからない。
 しかし、理由は何であれそれが最後の瓦であることに変わりはなく、孫策の打撃が自分が相手の瓦を砕くよりも先に自分の瓦を砕くだろうことを瞬時に察した馬超は、考える間もなく胸の瓦をかばった。例えわかっていたとしてもそうしただろうと、馬超は己の判断を振り返る。
 結果、左腕を犠牲にして瓦は守られた。
 トンファーが腕に喰らい付いている刹那の隙を、馬超は見逃さなかった。腹にくくりつけられた瓦に、槍の一突きを見舞う。
 見舞う、という言葉も近距離からならばという考え方も甘過ぎる。皮膚と筋骨に守られた内臓を吹き飛ばすような、容赦のない一撃だった。
 血反吐を吐いて孫策は吹っ飛んだ。
 闘技場の隅まで滑った体は、だが落ちることはなくぎりぎりで押し留められた。
 死んだか、と誰もが青褪めるような衝撃だった。
 孫策の体はしばらく微動だにせず、我に返った審判が救いを求めるように諸葛亮を振り返る。
 諸葛亮がすくっと立ち上がった瞬間、しかし孫策の体がぴくりと跳ね上がった。
 腹を押さえ、よろよろと身を起こした孫策に、馬超は深い息を吐き出した。左腕にずきりと熱く激しい痛みが走る。ぶらりと垂れ下がった左腕は、まったく思うようにならない。折れたのだろう。
 これで、対等。
 孫策の左胸には最後の瓦が残っている。偶然にも同じ位置に残された瓦に、馬超は再び溜息を吐いた。
 この腕では槍を扱うのは至難の業だ。孫策の体力の消耗を差し引いても、厳しい。
 だが、勝ちたかった。のことはこの時馬超の頭にない。ただ純粋に、この男に、孫伯符という男に勝ちたいと思った。
 降参という言葉が頭を過ぎったが、過ぎっただけですぐに却下された。
 死んでも、構わぬ。
 恐らく、孫策も同じように考えていると確信していた。
 死んでも構わぬ、今少し、もうしばらくで良い。この闘いを。
 延長を告げようと審判が手を掲げた時だった。
「………」
 くらりと孫策の体が揺れ、闘技場に倒れ伏した。
「伯符!」
 が青褪め、立ち上がる。
 審判が駆け寄り、慌て孫策の顔を覗き込む。
 動きの止まった審判に、馬超も目を剥く。
 まさか、という思いがある。
 今少しと願ったばかりだ。
 そんな馬鹿な。
 審判が馬超を振り向く。苦い顔をしている。
 そんな。
「眠っておられます」
 馬鹿な。
 ぽかんと口を開けた馬超は、憤りを足音に示して急ぎ孫策の元に駆け寄る。
 審判の言うとおりだった。
 孫策は、すかすかと寝息まで立てて安らかな眠りについていた。呼吸も正常で、顔色にもおかしな点は見られない。どう見ても、安眠しているとしか見えなかった。
 医師が引っ張られて闘技場に上がってきた。を見ていた医師だ。
「どれ」
 医師が孫策の手を取り、脈を図る。瞼をこじ開けたりしているが、孫策が目を覚ます気配はない。
 幾らなんでも熟睡に過ぎるだろう。
 やはり何か異変が、と馬超が息を飲むと、医師は馬超を振り返る。
「……そうご案じめさるな、眠っておられるだけじゃ」
「し、しかし」
「確かに眠りが深うございますな。だが、眠っているだけとしか申し上げようがない。脈も正常、魂魄の窓たる眼にも何の異常も見受けられませなんだ。端から見ておりましたが、頭を打ったというでもなし。……これ、審判殿。いつまでもこのようなところに寝かしておくわけにも行くまい、人を呼んで下さらぬかな」
 呼びかけられた審判は、うろたえて馬超を見る。
「し、しかし試合が」
「何を言っておるか、定められた規則があろう? 気絶したものは、負け、とな」
 気絶。
 馬超は渋面を以って孫策を伺う。
 どうみても、安らかに眠っているだけだ。納得がいかない。
 だが、起きる様子もない孫策にどうする手立てもない。
「審判殿」
 いつの間にやってきたのか、諸葛亮が白扇を手に闘技場の傍らに立っていた。
「勝ち名乗りを」
「……待っ」
 馬超が口を開きかけるのを、諸葛亮が押し留める。
「その怪我では、満足の行く戦いは続けられますまい。またの機会を待つことです。また、機会を得る努力をなさい。お分かりいただけましょうか」
 子供ではない。
 怒りにかっと頬を赤らめるが、同時に左腕に疼痛を感じて馬超は口を噤んだ。
 無言のまま闘技場の中ほどに戻る馬超を、審判も慌てて追いかけた。
「……勝者、馬超殿!」
 審判の宣言に、だが観客は熱狂した。幕切れとしては尻の座りが悪かったかもしれない。だが、最後の激突は観客達の満足を得るのに十分足りえた。
 複雑な面持ちの馬超に、医師が近寄り何気なく左腕を揺らす。
 途端に走る激痛に、馬超は思わず歯を噛み締めた。
「おお、ぱっきり折れているようですな」
 わかっていながら揺らしただろう医師を、馬超は厳しく睨めつけた。
 医師は怯むこともなく、馬超の視線を受け止めにこにこと笑みを浮かべる。
「早く手当てをしませんとな。この蜀をお支え下さる五虎将軍のお一人が、このような怪我をなさっていては如何にも心許ない」
 おべっかにも似た言葉に、馬超が惑わされるはずもない。が、医師もおべっかを言うような愛想のいい人柄でもないと知っていたから、馬超も渋々と従った。
 観客達は、そうしている間も二人に惜しみない賛辞を送り続けていた。

 劉備からその武を褒め称えられている二人の顔を、はじっと見詰めた。
 あれ。
 いかにも面映いという顔をした馬超はともかく、趙雲の顔は暗く沈んでいるように見えた。
 いつもと変わらない、無表情に近い端麗な顔をしている。
 だが、何となくそう感じた。付き合いが長くなってきているから、何となくそう察せられたのかもしれない。
「……優勝者に贈られる賞品についてだが……」
 劉備が困ったようにを振り返る。
 分けられるものではない。優勝者が複数になるとは思っていなかったから、考えていなかったと困惑しているのがありありとわかる。
 そういやどうするんだろうとが首を傾げた時だった。
「殿、その儀につきまして、お願いが」
 突然、趙雲が口を開いた。
 劉備も少し驚いたように趙雲を見ていたが、おもむろに続きを促した。
 趙雲は劉備に深々と頭を下げ、言葉を遮った非礼を述べると顔を上げた。
「……私は、此度賜る賞品を、辞退いたしたく存じます」
 しん。
 静まり返った場が、少しずつ居心地悪いざわめきに満たされていく。
 趙雲の隣に立つ馬超も、唖然として趙雲を見ていた。不躾な視線に晒されても、趙雲は顔色一つ変えずに姿勢良く立ち尽くしていた。
「そ……そうか……その……では……」
 戸惑った劉備の視線を向けられ、馬超の眉が吊り上った。
「だから、で貰えるものか! な、ならば俺も辞退だ! 辞退する!」
 喚き散らす馬超に、劉備の困惑はますます深まる。
 振り返られ、もまた困惑する。
 と言うか、が一番困っているのだ。いい面の皮ではないか。
 いらない、と言われる羞恥と鬱情に表情が曇る。
 馬超もようやくそのことに気がついたのか、はっとしてを見るがもう後戻りができない。言った言葉を今更なかったことにはできないのだ。
 次点の孫策は、眠ったままでこの場には居ない。誰もが困惑し、を慮るがいい手立ては浮かばない。
「では、私がいただくことにいたしましょう」
 にこりと笑って進み出たのは、諸葛亮だった。の傍らに立ち、優しく見下ろす。
 諸葛亮はを見遣るだけで、触れはしなかった。
 良かった、とは内心安堵した。
 今、優しく触れられたりしたら、張り詰めた気持ちが割れて泣き出してしまうかもしれない。
は私の部下ですし……私も優秀な部下を失わずに済めば有難い。何であれば、今から参戦いたしますが、如何に」
 馬超の顔が引き攣り、趙雲の眉がわずかに顰められる。
「……それで構わぬか、
 声は出せなかったので、拱手の礼を取ることで了承した。

 最後に少々の混乱が生じたが、こうして無事に大会は閉会した。

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