孫策が目を覚ました時、辺りは暗闇に包まれていた。
 起き上がろうと力を篭めると、体のあちこちが錆びついたような音を立てる。
「……起きたの? 大丈夫?」
 すぐ側にが座っていた。青い月明かりに照らされた顔は、血の気を失くしてこの世あらざる者の風体を醸し出していた。
 不安になったというわけではない。
 だが、孫策の意志とは無関係に手が伸びていた。の頬を撫でる指から、思ったよりは冷たくない、けれど人の体温としては低めの温度が伝わってくる。
 は怒りもせず、ただ孫策のしたいようにさせていた。
 違和感がある。
 怒ったり、笑ったり、孫策が何かするたびに、は打てば響くように反応を返してくる。
 そこが好きだった。
 これでは、そこらの女官が身分差を慮って感情を押し殺しているのと何も変わらない。裏表の複雑な感情は、孫策の真っ直ぐな性根とは相反するものだった。だからこそ、孫策は大喬を選びを選び、その異変はすぐに察することができた。
「何かあったか?」
 負けたと責めるような女ではない。負けたのなら、今度こそ勝てばいいと尻を叩くような女だと思っている。物凄い負けず嫌いで、それを自分の身内にも強要する節がある。
 自分はの身内だ。そう自負している。
「……何でも」
「何でもねぇって顔じゃねえだろ。俺に言えないことか」
 の顔に揺らぎが生まれる。無表情と愛想笑いを足して2で割ったような複雑な顔に、孫策は焦れる。何でも言えばいい。孫策は、の悩みや苦しみはすべて自分が取り除いてやりたいと希っていた。何を言ってもいい、望むならすべて叶えてやりたいと願ってしまう。
 古代の愚かな王の如しだが、孫策は本気でそう考えていた。
 複雑な面持ちで孫策の視線を受け止めていたの顔が、不意に崩れた。
「……まぁ、どうせすぐわかっちゃうことだし。いっか」
 笑みを作っているつもりなのだろう。
 けれど、その眦から透明な雫が溢れ、孫策の牀に落ちていった。
 慌てて指で拭うの目元が、摩擦で赤く染まるのを孫策は呆然と見た。
「あ、でも、たいしたことじゃないよ」
「……泣いてんじゃねぇか」
 目の前の光景に今一つ着いていけてない孫策は、その戸惑いを声に滲ませた。
 闘技場での一撃は、全力を尽くした最後の一撃だった。文字通り全力を尽くしたが故に、孫策は意識を保てなくなって崩れ落ちた。普通の人間が、本能よりも更に根本の、生存する為に無意識下に残すような力でさえ振り絞ったのだ。立っていることは無論のこと、戦うなど論外だった。
 覚えてはいないが、負けたのだろう。後悔はない。全力で楽しんだのだ。後悔など、しようはずもない。現に目覚めは心地よく訪れた。
 予想外だったのは、当然のように朝の眩い光に包まれて目覚めると思い込んでいたのが日が落ちて真っ暗だったこと、が思い詰めたような顔をして側にいたことの二つだった。
 が付き添っていてくれたのは嬉しいことだったが、自分を案じて側に居たのではなく、何かから逃げ込む為にここに来たことはその表情から察せられた。
 大切な時、が傷つけられたその時にのうのうと眠りこけていたのだと、嫌でも気付かされる。
 心臓ばかりがばくばくと忙しなく鼓動を刻む。
 早く知らなくてはと焦ると同時に、を傷つけたものをの口から言わせることに躊躇う。催促もできずに孫策はを見詰めた。
 の口元が力なく笑みを作る。
「……ホント、たいしたことじゃないんだよ。私が気にし過ぎてるんだと思うんだ。つか、うん、気にし過ぎなんだよ」
「いいから。言えよ」
 言いたがってる。けれど、言えずにいる。
 孫策はそう察して、に解放を促す。
 の胸の中に、どうしようもない憤りがある。嵐の夜の水面のように荒れ狂って心を傷つけている。
 出してしまえばいい。
 水の一部は、もう眦から溢れてしまっている。何でもないわけがないのだ。
 の唇が、寒さに震えるように痙攣した。押さえ込むように噛んだ唇が、青い光の中で更に血の気を失くして痛々しい。
「……いらないって」
 孫策が更にを促そうと口を開いた時、言葉が転がり落ちた。
 一瞬何のことかわからず、孫策は訝しい顔をしてを見詰める。
「賞品、いらないって。二人とも辞退するって。ただ、それだけ」
 の顔が歪む。
 笑おうとしたのだろうが、涙が溢れて失敗した。
 孫策は牀を飛び降りていた。

 趙雲は一人、宴会を抜け出した。
 らしくもなく、相当酒を呑んでいる。
 もう一人の優勝者たる馬超が腕を折り、酒など以ての外と医師の判断が下されていた。あまつさえ馬超の宴席の隣に医師が陣取り睨みを効かせているものだから、居並ぶ剛の者も祝杯とは言え無理に呑ませる訳にも行かず、結果趙雲の元に人が殺到した。
 呑んで呑んで呑みまくって、ようやく逃れられたのが夜明けも間近いこの時間だった。意識が保てているのだけでも奇跡だ。大袈裟でなく、樽一つ分に近い量を呑まされたように思う。
 早く眠りたかった。
 幾ら酒を呑んでも消えない、あの視線から逃れたかった。
 よろけながら歩く趙雲の耳に、姦しい足音が響いてくる。
 面倒な、と吐き捨てるような苦い心持ちに陥り、しかし酔いの回る体を制して姿勢を正す。人気のない場所を頭の中で選定していると、足音が止まった。
 振り返ると、怒気も露な孫策が立っていた。

 闘技場にはまったく人影がなかった。
 感慨深く入り浸っている兵士の一人二人は居るかと思ったが、既に祭りの後と皆がそれぞれの日常に戻っている。警備するものもないこの場所に、こんな時間にやって来る愚か者は居ないということだろう。
「いい加減、話せよ」
 我々以外には、と訂正するべきだなと趙雲は自嘲した。
 振り返った先で、孫策は獰猛な視線をひたと趙雲に向けていた。
「何で、あんなこと言いやがった」
が、そう言ったのですか」
「俺が聞いたのは、お前らがをいらねぇって言ったって、そんだけだ。孟起がンなこと言い出すわけがねぇ、お前が言い出して孟起がそれに釣られた、大方そんなとこだろうが」
 猪突猛進なだけだと思っていたが、意外に察しがいい。趙雲はそんなことを考えて静かに微笑んだ。
「何、笑ってる」
「いいえ、別に」
 言葉と同じように、辺りの空気も冷たく凝っている。それがどんどん冷え切っていくように感じるのは、夜明け前だからだというだけなのだろうか。
 趙雲は、己の中の熱を吐き出すように深く息を吐き出した。
 白い、酒臭い息はすぐに闇に溶けた。己を守る殻が、同じように儚く脆くなっていると何気なく気がついた。
 どうしてこんなところに来てしまったのだろう、孫策の一人くらい訳もなく言いくるめ、明日にとでも約定することは出来たはずなのだ。
 言いたかったのだろうか。
 そんなはずはないと、趙雲は目を伏せた。
「言え」
「何を言えと」
「わかってんだろうが」
「さて、何のことか」
 子供のような言い合いになってきている。原因は自分だと察しをつけながら、趙雲は真面目に答えることが出来ずにいた。
 言いたくなかった。
「言え。何で、あんなこと言いやがった」
 孫策は執拗に食い下がってくる。
 が孫策に付き添うという名目で宴席への出席を避けた時、誰も何も言わなかった。
 誰もが戸惑っていた。
 三人、というより馬超を除く趙雲との間に何が起きたのか誰も知らない。何かあったのかもしれない、しかしその何かが何なのかわからない。
 わからない以上は、そこから先は他人が触れてはいけない領域なのだ。男女の機微は、傍から見ている分にはどうとも手の下しようのない、細やかな繊細なものだったからだ。
 皆の気遣いは有難く、また鬱陶しくもあった。
 そんなたいしたことではない。
 そんな大袈裟なことではなく、ただ、趙雲には耐えられなかっただけなのだ。
「聞こえてねーのか!」
 そうではなく。ただ。私は。私は……。
 鋼鉄の自制心は遂に引き千切られた。

 趙雲は前触れもなく孫策の胸元を掴み上げた。
 穏やかとも清らかとも評される双眸が、怒りと憎しみに煮え滾っている。
 あまりに露骨な敵意に、孫策は一瞬状況を飲み込めずに呆けた。
 趙雲がここまで怒り狂うのを初めて見た気がする。自分を殺すことを常に課す男が、感情を剥き出しにしているのが逆に非現実を思わせた。
「貴様、が」
「……俺が、何だよ」
 朱の唇に白い歯が食い込むのを間近に見る。
 こいつもか。
 も、趙雲も、身の内に嵐を抱いて外に漏らそうとしない。イラついた。
「泣いてたぞ」
 孫策の言葉に、趙雲の肩がぴくりと跳ねる。
 罪悪感に打ちのめされたかという予想は、あっさり裏切られた。趙雲は、笑っていた。仄かな、暗い愉悦に唇を歪めていた。
「お前は、」
 趙雲の手を弾き飛ばす。
「何笑ってんだよ!」
 怒りに火が着いた。
 惚れた女のはずだ。その女を泣かせて、哂う馬鹿がいてたまるか。
 孫策の怒りは極単純なもので、且つ正当なものだった。
 もし本当に趙雲が哂っているのなら、叩きのめさなければいけない。
 孫策は、腰に下げたトンファーを抜いた。闘技場で使っていた木製のものではない。愛用の、手に馴染んだ重量を誇る覇王だ。
 趙雲もまた、手にした豪竜胆を軽く旋回させた。受けて立つ、と動作で示していた。
 闘技場での緊張感とは、また違う空気が場を支配する。鳥肌立つような、びりびりと震える空気は、戦場のもの以外では有り得なかった。
「やるってんだな」
 確認するでなく呟かれた言葉に、趙雲は再び暗い笑みを浮かべた。
「何も、知らぬと思っているのか」
 その言葉に、孫策は構えを少し緩め訝しげに趙雲を見上げる。
 趙雲の槍が虚空を滑り、銀の穂先を以って闇を切り裂いたのはほぼ同時のことだった。

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