孫策の知る限り、趙雲の武は慎重であっても狡猾ではない。
 共に戦場を駆けたことこそなかったが、己の武に何がしかの自信や誇りめいたものを持っているのはすぐに察せられた。
 待ち伏せをすることはあっても不意を突いて襲い掛かることはしない。それが誰かからの策でもない限り、卑劣な手段に訴えることはないと確信していた。
 それが今、覆った。
 不意を突いての急襲は、しかし趙雲ほどの武将にしては稚拙に過ぎた。
 難なく槍を弾き、力比べに持ち込むと、趙雲の息が酒臭いのが知れた。相当呑んでいる。
「酔ってんのか」
 孫策の問い掛けにも趙雲は答えようともしない。力の反発を利用して飛び退ると、再び打ち込んできた。
 酷いものだった。
 新兵の訓練の方がまだ幾らかマシだとさえ思える。槍の重さに振り回された趙雲の動きは鈍重で、受ける価値もないと孫策は身のこなしのみで避ける。避けられる。
「試合った時も思ったけどよ」
 頬の擦れ擦れに穂先の放つ冷気が掠っていく。趙雲の槍が鋭いからではない。孫策にしてみれば、大袈裟にかわすのも面倒だという、それだけの話だ。
「酷ぇもんだな」
 武道大会で趙雲と当たった時、孫策は趙雲の動きの鈍さに驚いたものだ。何かの策かとさえ思った。趙雲の目が揺らいでいるのを見なければ、疑心暗鬼に陥って試合を落としていたかもしれない。
 もっと強い男だと思っていた。予想外に、否、わざと負けたのかと思うほど趙雲の動きは冴えな
かった。
 何となしに趙雲の試合を見遣ると、動きにムラがあるのがわかった。それは、月英という女武将にも見られた。
 惑っている。
 孫策にわかるのはそれだけだった。月英の方は遠征の疲れからかとも思ったが、趙雲には思い当たる節が何もない。体面上のみとは言え、誰はばかることなくを得る絶好の機会に、趙雲が全力を出せない理由がわからない。
 体面上だからかとも思う。
 だが、それならば趙雲はを守るべく堂々と全力を尽くす筈だと思えた。
 趙雲の人柄は、実を言えばよくわからない。方寸をどう定めているか、隠している節があった。を壊れ物のように大切にするかと思えば、粉々に壊しにかかるような真似をする。
 定まっていないのかもしれない、とも思った。
 かつての孫策がそうであったように、どうしてもそうしたいのだと駄々をこねてみたくなっている。
 そうかもしれなかったが、どこか微妙なずれを感じる。そうではないだろうと感じられる。
 趙雲の槍が孫策の腹目掛けて打ち込まれる。
 孫策は軽く地を蹴って宙に逃れた。
 鋭く追い討ちを掛けるだろう槍は、もたついて地を這っている。
 孫策は構えを解き、唾を吐き捨てた。
「止めだ。つまんねぇ」
 趙雲の顔がさっと青褪める。武人にとってみれば、これ以上の屈辱はあるまい。豪竜胆を握る手が、闇の中でもわかる程にぶるぶると震えている。噛み締めた唇は白く浮き上がっていた。
 突然、趙雲は孫策に豪竜胆を投げつけた。
 串刺しにしようというのではない、ただ投げつけた。
 意図のわからない行動に孫策が面食らっていると、趙雲が飛び掛ってきた。
 横倒しに倒れ、趙雲に圧し掛かられる。酔っ払いにしては強い力でぐいぐいと胸倉を引っ張られ、孫策は辟易して眉を顰める。
 振り払おうと思えば簡単に振り払えるのだが、趙雲の目があまりに悲しげで躊躇われた。今の趙雲を振り落とせば、一生この男の本音を聞けなくなるような気がしたのだ。
 逆を言えば、本音を吐露しかかっているように思えた。
 後少し、どう押せば吐くだろうか。
 数瞬の思案の後、孫策は問い掛けの言葉を定めた。
「何を、知ってる?」
 孫策の言葉に、趙雲の眉が吊り上った。孫策は構わず続けた。
「お前、何か知ってるんだろ。大会直前に、ソレ知ったんだな? 何を知った。誰から、教えられた」
―――貴様、が。
 趙雲の苦しげな声が蘇り、孫策は己の馬鹿さ加減に気付いた。
 それしかないではないか。
「俺が、を置いていくつもりでいること、か?」
 答えがないのが答えだった。
 趙雲の指から力が抜けていく。
 は孫策を納得させたつもりでいるらしい。その誤解を利用して、孫策はを置いて帰るつもりでいた。を抱いた次の日、諸葛亮のところに直々に赴いて約定を取り交わした。
 を呉にはやらない。代わりに、孫策が呉と蜀の架け橋になる。
 呉の跡継ぎたる孫策が架け橋になる。その方がが呉に来るよりよほど確かだ。孫策が呉大事から蜀との同盟を破綻させる恐れはあったが、諸葛亮には半ば無理矢理了承させた。孫策自身の人柄の為せる業も大きかったろう。
 大会参加を勧めたのは諸葛亮だ。
 お祭り好きの孫策が、こんな大会に出ないのは却って疑われる。それに、を託す男達の技量を見ておくのも悪くはなかろうということで、孫策は大会出場を決意した。
 呉に出港する予定は、今日だった。
 大会開催後の後始末のどさくさ紛れに出港するつもりだった。眠りこけていたから宴には出られなかったが、本当は孫策帰還の送別の宴も兼ねる予定だったのだ。
「……貴方がを置いていっても……は、了承しないでしょう……」
「……だから。それは、諸葛亮が何とかするって」
 趙雲の指に再び力が篭った。
 込み上げる吐き気でも耐えるかのような、苦い顔をしていた。
が、例え深謀遠慮の丞相が相手だとて、留められるような女だと思うのか!」
 吐き捨てたのは絶望めいた事実だった。
 その身は留められても、心は留められまい。結果、趙雲は置き去りにされるのだ。遠い昔、劉備に置いていかれたように、今度はに置いていかれるのだ。
 得たと思った者に置き去りにされる。趙雲にとって、二度は耐えられぬ苦しみだった。
「勝ちたい、そう願う心もあった。だが、貴様が呉に帰れば、を置いていけば、は結局呉に向かうだろう。それを私に耐えろと言うのか。私のものとなった女に捨てられる、その屈辱を甘んじて耐えろと言うのか、貴様は」
 浅はかだった、と言えば聞こえはよかろう。
 孫策は、掴まれた胸から湧き出す痛みに眉を顰めた。
 浅はかだったでは済まない苦痛を趙雲に与えたことに、やっと気がついた。自分が我慢さえすればいい、もいずれ理解すると単純に考えていたのだ。
 そうではなかった。
 呉で、あれほど蜀に思いを馳せていただったから、蜀に居させるのが一番いいのだと思い込んでいた。趙雲も、馬超も、孫策がこれと見込んだ男だ。を託すに相応しい、もこいつらの側に居るなら本望だろうと勝手に決めてかかっていた。
 はそんな女ではないと、その趙雲に詰られている。あの諸葛亮の厳命でさえ蹴って、例え置いていかれようと意地でも呉に向かうだろう、はそういう女だと罵られている。
 あまりに無知だと責められているのだ。
 その無知が趙雲を苦悩させてしまった。
 そんなつもりはなかっただけに、孫策もまた苦い顔をする。最善だと思ったのだ。だから、実行した。よもやここまで趙雲を傷つけるだろうとは予想だにしていなかった。
 沈黙が落ちた。
「まあね」
 第三者の声に、両者ともがぎょっとして振り返る。
 いつの間にかそこに、が居た。言い争っていることに夢中になって、気付かずに居たのだろう。失態と言うより他なかった。
「子龍が正しいね。置いていかれたら、私、たぶん滅茶苦茶ぶち切れて蜀飛び出して呉に向かうだろうね。そんで、山賊か河賊だかに捕まって、嬲られて犯されて売り飛ばされて凄惨な一生を過ごすんだろうね」
 恐ろしいことを淡々と言い募るの目は、かなり据わっていた。
「……いや、まさかそこまで」
「イヤマサカじゃない、このど阿呆!」
 趙雲に乗っかられて身動きの取れないのをいいことに、は孫策の額をぴしゃりと叩いた。
 痛みに呻く孫策を睨めつけ、は今度は趙雲に向き直った。
「自分の物になった女に置いてかれるのが嫌? だから、あんな満座の中で恥かかせたの?」
 趙雲は答えなかった。ただを見詰める。不平ともつかない、微妙な面持ちでただを見詰めていた。童が親に説教されている時の顔にも似ていた。正当な物事に理不尽を訴える顔だとは思った。それだけ、抗い難いものに抗わなくてはならないだけ、趙雲は傷ついているのだと感じた。
「置いてくんじゃないでしょ」
 の眦に涙が浮く。
「待っててもらうんでしょ。私は蜀の人間なんだから、ちゃんと帰ってくるよ! 子龍を置いてったりしない、ちゃんと帰ってくるよ!」
 ぽろぽろと涙を零すを、趙雲はやはり無言で見詰めていた。
 劉備に置いていかれた趙雲の苦痛を、は自らも感じ取っていた。また同じ痛みを与えられると怯え惑っていた趙雲が、憐れで切なくてたまらなかった。
 置いていくのではない、自分が帰ってくるまで待っていてもらうだけだ。
 大差はないかもしれないが、少なくともにとってはまったく別物だ。
「ちゃんと……ね、ちゃんと、子龍のところに帰ってくるから。わかるでしょ? 私が嘘ついてないって、わかるでしょ?」
 それでも嫌なら一緒に行こう、とは喚き散らした。
「一緒に呉に行こう! 何なら、孟起も一緒に! そんならいいでしょ、ね!」
 趙雲の手を取り、子供のように揺さぶる。
「そうだな」
 ぽつり、と呟くと、趙雲はから視線を逸らした。
 できるわけがない。
 内心では冷静に考えている。
 五虎将軍の内の二人までもが、呉に行ける道理がない。
 けれど、が本気で言っているのはわかった。ちゃんと帰ってくる、趙雲を置いていくつもりなど欠片もないことを誓っている。
「……そうだな」
 馬鹿な女だと思うと同時に、憑き物が落ちたように肩と心が軽くなった。
 おかしな女を好いてしまった、と何度目になるかわからない感慨と共に自嘲が漏れた。
「……納まったんなら、いい加減退けよ」
 圧し掛かられた孫策が、不満げに呻いた。趙雲は未だ孫策の上に圧し掛かったままだった。
「これは、申し訳ない」
 ちっともそうは思ってない風に趙雲が詫び、孫策の上から退いた。
 孫策は背中や腰についた砂を払うと、何事もなかったように常に戻った趙雲を睨めつける。
「肝心のとこがまだだぜ。お前、誰に俺のこと聞いた」
「丞相からです」
 けろりとして言い放つ趙雲に、孫策はかくんと顎を落とした。
 趙雲はついでとばかりに説明を加える。
「孫策殿がこのように仰られている、不承不承承知したのだが、趙将軍は如何思われますか……と。このように申されまして」
「あっ……あの野郎、内緒だっつっておいたのに……!」
 怒り狂い、歯軋りする孫策に、趙雲はまたけろりとして続けた。
には、でしょう。だから私に相談するのだと申されました故」
 剥き出しになっていた歯が、一瞬で隠れる。
「……だったっけか」
「だと思われますが。私は同席していたわけではないので、保証はいたしかねます」
 だが、諸葛亮のことだから恐らくその通りなのだと思われた。自分からは決して約定を破らず、正道を通すのが諸葛亮の遣り口なのだ。どれほどインチキ臭い手だとしても、責めるに責められないように万事を整えるのが諸葛亮と言う男だった。
 苦虫を噛み潰した顔で何事か考えていた孫策は、くるりと踵を返して城内に向かう。
「伯符、何処行くの」
 が問い掛けると、孫策は顔だけ振り向いた。
「やっぱ納得いかね、あの野郎とっちめてやる」
 孫策が出向いたところで諸葛亮の掌で転がされるだけだと思うのだが、止めたところで聞き分けそうにもない。夜明け前だから、寝入り端を叩き起こされたら如何な諸葛亮と言えどどうなるかわからない。かもしれない。
 どうするべきかとが悩んでいると、不意に背中を温もりが包み込んだ。
「すまなかった」
 趙雲の声は小さかった。
 がその顔を見ようと振り仰ぐのを押し留め、抱いた体を包み込むようにして巻き締めていく。
 仕方なくその腕に手を添え、鼓動と同じリズムで優しく叩いてやる。
「待っててくれる?」
 の問い掛けの声もまた小さかった。
 だが、趙雲から頷く気配を感じた。

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