したなぁ。
牀にひっくり返ったまま、は既に見慣れた天蓋に目を向ける。
案外、普通にしたなぁ。
本当に、慣れてしまったのかもしれない。
薄く目を開けた先に、上気した馬超の顔を見た。
一瞬だったけれど、汗に濡れた艶かしい肌が目に焼きついている。
エロい。エロだ。エロエロ。もう、凄いエロ。
茶化しているのでも何でもないのだが、そうでも思わないと足をじたばたさせて暴れたくなる。
昨夜、何だかんだで動かしてしまったから、今日こそ要・養生なのだ。
目を瞑ると、否応なしに馬超の顔を思い出す。
固く閉じられた瞼。何かを堪えているような眉間の皺。薄く開いた唇から、白い歯と赤い舌が覗いて、浮き上がった鎖骨から鍛えられて盛り上がった肩に流れる線が、うあぁ。
「エロい……」
「はい? 何か仰いまして、さま」
思わず口に出た言葉に、春花が反応する。
何でもないのでゴザイマス、と返事して、へもー、と意味不明な呻き声を上げる。
春花はきょとんとしてを見詰めていたが、お湯を戴いてくると言って廊下に出て行った。
諸葛亮からは、足の怪我が癒えるまで休んでいなさいと言われたが、何の因果か馬超の屋敷に留め置かれている。春花も通ってくれているし、下にも置かない歓待を受け、有難いと思いこそすれやさぐれる理由など何もない。
しかし、馬超の屋敷なのだ。馬超の傍に置かれているのだ。
足の怪我や医者の言いつけもあり、昨夜までは無事にやり過ごして来た。
そういうことナシでいようと固く誓っていた。馬超とて男なのだから、自分のいない間にどうにかしていたのだろうから、我慢してもらえると思っていた。
だから触れてこないのだろうし、多少の無理強いも許してくれるかと甘い考えを持った。
けれど、求められたらどうしても嫌だとは言えなかった。
言葉でなく、体の熱で訴えられていると知った時、思わず訳のわからないことを口走っていた。
我ながら、何と言う阿呆さ加減だろう。
嫌いではない。
それだけは、はっきりしている。
では好きなのかと言われたら、そう、好きだろうと思う。
だがそれも、好きな人の中の一人、というレベルの話で、件の『今生この世』という相手ではないように思う。
ちゃんと決められるまで、誰とも関係を持たないようにしなければと思う。それがヒトとしての道だと思う。
なのに、は当たり前のように体を許してしまった。
情けない。
趙雲、馬超、孫策。三人のみならず、姜維には自ら『奉仕』をしたし、孫堅には危うく体を差し出すところだった。
錦帆賊の男達にも犯されそうになったし、どうも自分のガードは緩過ぎるのではないだろうか。
そう考えると、は果てもなくずるずると落ち込んでいく。
落ち込んでも仕方がない、第一どんなに懸命に抗ったとて、相手が許してくれたことなど一度もない。どうしても嫌えないし、相手は趙雲や孫策の訳だし、文句なんかおこがましくて申し上げようもないし(言ってるが)、そもあんなにエロいのがずるいのだ。
そして馬超の顔がぽっと思い浮かぶ。
何と卑怯な。
あの馬超を前にして、拒めるものなら拒んでみるがいいさー!
誰に向けてでなく、は胸の内で吠えた。
「いたっ」
足を動かしてしまったらしく、突然痛みが走る。
厚く巻かれた白布が取れる気配は、未だない。
昨夜は馬超のお陰(?)で何事もなかったが、毎晩というわけにもいくまい。
どうも発散すらせずに過ごしてきたらしい馬超に、添い寝だけして下さいというのも惨い話だ。かと言って、寝ずの番をしろなどとも言えない。
どうしたものか。
夢遊病などというたいしたものなのかどうかも、正直自信はない。単に寝惚けてうろついているに過ぎないかもしれない。
とは言え、医師があれだけ渋い顔をするくらいなのだから、馬超と馬岱を見送った時だけ歩いていたということでもないような気がする。
夢遊病だとして、その原因はなんなのだろうか。
そう、原因だ。
これだけ歓待されていて、何をストレスに思うことがあろうか。
有名な夢遊病の症例として挙げるなら、アルプスの少女ハイジがちょうど良かろうかと思われる。
時速70kmオーバーのブランコを、笑顔で乗りこなす豪胆なアーデルハイドですら夢遊病になったのだから、自分のような一般人が夢遊病になってもおかしかぁあるまい、とは考える。
だが、ハイジが夢遊病になったのは、都会での心無い仕打ちとプレッシャー、山への望郷の念が積もりに積もった結果だった。
自分の場合は、ならば何だろう。
ふと思いついた事柄に、は崩れ落ちた。
『……セックス依存症とかだったどーしよう……』
呉に出向している間ですら、趙雲や孫策と肌を合わせた。人には言えないが、一人でそういうことも、実はした。
帰りの船に乗っている間に合わせてここで過ごした十数日、そういう方向のことは何もなかった。他人の屋敷に居候しているという緊張から、一人で、ということもしていない。
本当にこれが原因なら、昨夜でストレス発散したはずである。
そう考えると、もう寝ている間に歩かずに済むかもと安心もするし、自分が変態か淫乱にでもなってしまったのかと錯乱したくもなるし、ひーん、うはぁ、おごぉ、などと奇声を発して暴れたくもなる。
実際のところ、本当に奇声を発していたので春花が目を丸くしていたのだが、は気付きもしなかった。
馬超は、職務が一段落した合間に、馬岱から昨夜聞きそびれた『用向き』を聞かされていた。
満たされ、ここしばらくの苛々から解放されていた馬超は、馬岱の話を聞いて眉を寄せた。
が、夜中歩き回っているのではないかという。
家人から聞き及んだ話だと言うことだが、夜中に巡回していた折、庭からが外をぼんやりと見ていたのを見た者が何人かいると言う。
最初は気にも留めなかったのだが、よく考えれば動かしてはいけない足を動かしていることに他ならず、気にした家人がさりげなくに尋ねたのだが、は自分が外を見ていたことなどまったく覚えていないかのようだった。
そこで思い切って、が夜中窓辺に出てくるのを見計らって声を掛けたのだが、振り向きこそすれぼんやりとした目は焦点が合っておらず、人形のようなその様にぞっと鳥肌立つ思いがしたという。
「物の怪に、憑かれているのではないかという話が広がっておりまして……」
馬岱自身は、そのような与太話に耳を貸すような人柄ではない。
細やかな気性ではあったが、西涼の民らしく無骨な面もあったし、何より迷信世迷言の類を信じる口ではなかった。
ただ、事がのことであるし、家人が道士を呼んだ方がいいのではなどと騒ぎそうだったので、とりあえず自分が何とかする、家主である馬超にも話をすると宥めてきたのだ。
偶然にも昨晩、当の本人から話を聞いていた馬超は、ふふんと鼻で笑った。
「何が物の怪か、それはな、病だ。夢遊病と言うのだ」
馬岱が驚き、感心したように目を見張る。すべてからの受け売りなのだが、馬岱が知らないのをいいことに、馬超は自慢げに胸を反らした。
「では、治療の手立てもご存知なのですか」
馬岱の期待の篭った言葉に、馬超はうっと詰まった。
しばらく馬超を見ていた馬岱だったが、おもむろに溜息を吐く。
「……では、病名がわかったとしても仕方ないではありませんか……」
せめて原因がわかりませんかと問うのだが、馬超は詰まったまま返事もしない。
医師殿に相談するかと馬岱が思い悩んでいると、衛兵が関平の来訪を告げに来た。
「関平殿が?」
これは珍しいと馬岱が案内を命じると、すぐに衛兵は関平を連れて戻ってきた。
礼儀正しく拱手の礼を取る関平に、馬岱が応じて礼を返す。
「どうした、関平。俺に何か用か」
馬超も少し驚いているらしい。関平は、言い難そうに苦笑を浮かべていたが、私用ですと前置きして用向きを告げた。
の見舞いに伺いたいと言う。
馬超とは執務上休みが合い辛いし、主の居ない屋敷に赴くのに許しを得たいとわざわざ自ら出向いてきたらしい。
馬超が深読みして顔色を変えるのを、馬岱は鋭く目配せして諌めた。
「……関平殿が、殿とそれほど親しくなさっていたとは初耳ですが」
馬岱が切り出すと、関平はやや照れ臭そうに頬を染めた。
「実は拙者でなく、そのぅ、星彩が酷く気にしていて。お加減は如何かと、心配しているものですから、ならばいっそ見舞いに伺ってはどうかと思いまして」
星彩に勧めたが、親しい間柄でもないのに突然伺っていいものかと尻込みしていると言う。
なので、いらぬ世話ながら関平がしゃしゃり出た、とこういう次第だとのことだった。
「星彩殿が」
馬岱の言葉には感嘆の響きがある。
情の厚い蜀将の中でも、星彩はその冷静さと滲み出る孤高の気性から異彩を放つ。
顔見知り程度のの見舞いに来たがるとは、到底思えなかった。
関平は、柔らかな笑みを浮かべて馬岱の疑問に答える。
「内密にしていただきたいのですが、どうも星彩は、殿に憧れている節があって。この間の宴で、殿が歌われたでしょう。あれからずっと、殿とお近付きになりたいような素振りを見せていて」
ああいう気性ですから、照れて、素直に言い出せないようですが、と、まるで関平は保護者のような口振りだ。
幼馴染が初めて見せる可愛らしい面に、浮き立っているのかもしれない。
何にせよ、初々しい話だ。
「良いですよ、ねぇ従兄上」
気安く請合い、馬超を振り返ると、意外にも不機嫌そうな顔をしている。
「あの歌の、何が良いのか俺にはさっぱりだがな」
「従兄上……」
音楽に興味がまったくないという訳でもないはずなのに、何と言う憎まれ口を叩くのか。
関平も驚き、困惑して馬超を見詰めている。
我ながら大人気ないとでも思ったのか、馬超はすぐに関平に詫びを入れ、留守中の訪問の許可を与えた。
戸惑いながらも有難いと笑みを浮かべ、謝辞を述べて退室する関平を見送り、扉が閉まったのを確認した。
「従兄上」
君主たる劉備も認めるの才を、何故ああも声高に貶めるのか。これは是が非でも苦言を呈さなければなるまい。
腹に力を篭めた瞬間、馬超の溜息が漏れて馬岱の気勢を殺いだ。
「歌など、歌えなくていい」
その呟きが意味するところを悟って、馬岱は口を噤んだ。
孫策から仕入れた情報に寄れば、孫策がを目に留めたのはまさにその歌のせいであり、呉将もこぞってに夢中になっていると言う。
あまつさえ、父たる孫堅、並びに弟の孫権もに夢中だなどと悪びれずに言われては、気の毒過ぎて従兄の耳には入れられない。
だからこそ、昨夜は馬超を止めずに送り出したのである。
――殿、貴女は何と言う罪作りな方ですか。
が聞いたらひっくり返りそうなことを、馬岱は胸の内でそっと囁く。
執務を再開させねばならぬと思いつつ、馬超を急かすのも憚られて、馬岱は唇を噛むのだった。