突然の乱入もとい訪問を受けた犀花は、文字通り縮み上がった。
 単純に驚いたこともあるが、客人を出迎えられる状態には到底なかったからである。
 何となれば、服を着ていなかった。
 ただ服を着ていないのではない。
 牀の上に、全裸で放置されていた。
 別に、露出趣味に目覚めた訳ではない。
 用を足した後、ついでだからと体を拭くことになった次第だ。
 それを言い出した松柏が水を取りに行ってしまい、取り残されたところへの来客だった。
 相手が違えば、これ以上ない歓待だったかもしれないが、生憎と訪ねてきたのは楽進である。
 喜ばれるどころかドン引きされても仕方がない。
 それが犀花のせいでないにせよ、である。
 せめて服があればと希うも、着ていたものは洗濯ということで、全て持ち去られてしまった。
 体を拭くからと裸で放置されており、着替えは用意されていない。
 看護に邪魔だったせいか、傍らには掛け布の一枚もなく、大人しく伏せてもいられず体を起こすも、逃げ場がある訳もなかった。
 秘部と胸乳を手で隠すのが精一杯だ。
 楽進は、一度ぐるりと室内を見回すと、犀花の方を見て目線を止める。
 はっと表情が強張り、わなわなと唇が震えた。
 驚いたのだろう。
 では、そのまま帰ってくれ。
 血を吐く勢いで念じるも、楽進は動かなかった。
 驚き過ぎて固まった、というのとも、少しばかり違うように思う。
 その顔色は、みるみる青ざめていく。
 どういう意味だ。
 何故か憤ってしまう。
 が、楽進は犀花が考えたような下卑た理由で青ざめた訳ではなかった。
 楽進の体が崩れ落ちる。
 もしや気を失ったのかと衝撃を受けるも、楽進は床に膝を着いたところで留まった。
 そのまま、片手を着いて体を支える。
 がっくりと折れた首に、凄絶な悲壮感が生じていた。
「……申し訳、ありませんっ……!」
 喉を引き千切り、振り絞るような声だった。
 心痛に満ちた声音に、犀花の方が泣きそうになる。
 何が起きたと狼狽するが、何がある訳もない。
 あるのは、否、いるのは楽進と犀花のみだ。
 どうしたものかと、ひたすら惑う。
 首を巡らせたことで痛みが走り、思わず視線を下げた。
 その目に、自分の裸体が映る。
 包帯とも言い難い、麻の布を巻き付けられた隙間から、斑に染まった醜い色の皮膚が見える。
 生々しい暴行の痕跡に、氷水をぶちまけられたかのような寒気が走った。
 視界が歪む。
 網膜に忌まわしい記憶が投写され、現実と悪夢が交互に映し出される。
 急激な視界の変化に溺れて、酷い眩暈に襲われた。
犀花殿!」
 斜めに流れた世界が、不意に止まる。
 背中から肩に掛け、鋭さを伴う熱を感じた。
 嗅ぎ慣れた、けれど落ち着かない匂いに陶然とする。
 喉の更に奥で、唸るように疼く何かがゆっくりと体の中で蠢き出す。
 そんな錯覚がある。
「……犀花殿」
 我に返る。
 気付けば楽進の腕に抱かれ、その首元に顔を埋めていた。
 無論、犀花は全裸である。
 全裸で男の肩にもたれ、あまつさえはぁはぁしてるというのはどうなのだろうか。
 顔が焼ける。
 離れようともがいてみるも、姿勢のせいか押さえられた肩のせいか、却って楽進に胸を押し付ける形になった。
「あの、すみません」
 謝罪の言葉か依頼の言葉か、犀花も自分で分からない。
「は、いえ」
 返す楽進の言葉も、正直よく分からない。
 恥ずかし過ぎて顔が見られず、とにかく離れようともがき続ける。
「はっ」
 楽進の息が犀花の前髪を揺らし、釣られて顔を上げてしまった。
 思い切り目が合う。
 目の中に火花が飛んで、犀花は思わずのけ反った。
 楽進が慌てて手を伸ばす。
 いつの間にか牀の端に寄っていたらしい。
 転げ落ちそうになるのを、助けてもらった。
 それはいい。
 だが、その先にはあまりにお約束な展開が待っていた。
「…………っ!」
 牀の上に二人、まるで重なるように横たわっている。
 距離は極近い。
 唇はそれこそ、楽進が身を起こす反動で触れられるのではないかと思う程だ。
――近い近い近過ぎるっ!!
 楽進は、何故か動かない。
 その気があるのかと血の気が引くも、どうもそうでもない。
犀花殿」
 呼ばれるが、動けない。
 目に力を籠め、頷いたつもりになった。
 幸い意図は通じたようで、楽進は話を続けてくれる。
「ご無事ですか」
 問われ、いきなり全身に痛みが走る。
 犀花にしてみても都合の良いこと甚だしいとは思うが、忘れていた痛みがぶり返した。
 顰めた表情から覚ったらしく、犀花の上から楽進が退く。
 痛みは消えないものの、人心地ついた。
 もっとも、楽進が身を起こした時に何やら霞めたような気がして、鼓動は更に騒がしくなっている。
 楽進は改めて床に膝を着くと、きっちりと頭を下げた。
 複雑な思いが犀花を襲う。
 何を詫びられているのか分からない、等と野暮を言うつもりはない。
 犀花を襲った兵士達は、楽進に関わりのある者なのだろう。
 どの程度の関わりかはさておき、将たる楽進が膝を着いて詫びること自体は、礼儀としてこの上なく正しいものだろう。
 けれども、正しいことが常に胸に響くかといえば、そうではない。
 実際、犀花の心境としては、嬉しくも有難くも、敢えて言うなら腹立たしくも悲しくもない。
 ただただ複雑で、理由もなく狂おしい。
 この気持ちをどう伝えていいのか分からなかった。
 言葉にしようと口を開くが、もどかしく震えるばかりで一音も発せられない。
 あなたのせいではないとか、そんなことをして何になるとか、思い付くことは幾つかある。
 けれども、それらは声帯を通って音になる前に、軒並み溶けて消えてしまうのだ。
 思い浮かんだそれら言葉の、どれにも納得してないからだろう。
 とはいえ、そんなことは楽進には何の関係もない。
 困った。
 と、思い出す。
――私、全裸だよ。
 忘れるようなことではないのだが、こうも完全に無視されると犀花もうっかりしてしまう。
 興味がないのか知らないが、全裸の相手に謝罪も糞もなかろうと思う。
 相手が全裸の時点で、まず帰るべきだ。
 つか、帰れ。
 方向性が決まった。
「……楽進殿」
「はい」
 申し訳なさは極まってはいるものの、相変わらず気にした様子はない。
 名を呼ばれたからと素直に顔を上げる辺り、犀花は貴人や目上の者という分類には含まれてはいないようだ。
 当たり前といえば、まあ当たり前ではある。
 我儘を言わせてもらえば、一応女扱いくらいはしてもらいたいとも思うが、所詮は敵国の一文官を、人間扱いしてくれというのが贅沢なのだろう。
 それがどんなに屈辱で耐え難いとしても、だ。
 鼻の奥がツンとする。
 唇を噛んで耐えた。
 この上、同情を買うような真似はしたくない。
 腐っても蜀の文官と、せめて胸を張りたかった。
「……私もこんな状態ですし、申し訳ありませんが……」
 声が震えるのを恥じながら、ようよう絞り出す。
 楽進の目が、訝し気に細められた。
 恥ずかしさが加速する。
 それは、恥辱と称すのも生温い、自尊心を血肉ごと抉り取られるような苦痛を伴っていた。
「あ」
 その声は、犀花が発したのではない。
 となればと見遣れば、視線の先にみるみる赤くなっていく楽進の姿があった。
 唖然とする犀花を他所に、紅に近い朱は耳や首をも染め上げる。
「は、その、も、申し訳……」
 言い差し、楽進は顔を伏せる。
 そのままずりずりと後退し、ぱっと飛び上がると猛烈な勢いで室を辞していった。
 後に残された犀花は、ただ見送ることしかできない。
「……え」
 まさか、とは思う。
 まさか、楽進は犀花が裸だと認識していなかったのか。
 そんなことがあり得るのだろうか。
 いやしかし、けれどと葛藤する。
 頭の中には『残念な子』なる無礼な文言が、執拗にぐるぐる回っていた。


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