「あんた、楽進に何をした」
 とんだ言い掛かりである。
 しかし、犀花は黙した。
 説明をするのは容易いが、到底理解はしてはもらえまい。
 楽進の訪問を受けての翌日、謝罪という名目で李典が訪ねて来ていた。
 だが、開口一番、飛びだしたのは犀花への詰問の言葉だったという訳だ。
 悩んだ挙句、犀花は問い返すことにする。
「……楽進殿が、どうかしましたか」
 問いに問いで返すのは卑怯と思いつつも、状況が分からないでは何を答えていいかもわからないから、仕方がない。
 厚遇されているとはいえ、捕虜の身の上である。
つまらないことで、自身や蜀の人々に迷惑を掛けるのではと身構えてしまうのだ。
 否、身構えなくてはならない。
 うっかりすると、敵国に在ることを忘れてしまいそうになる。
 小心でありながら不注意という自身の性質を、改めて認識する。
 それは、いつもの自分に戻った、ということでもあった。
 何の気なしに手のひらを見下ろす。
 緩く広げた手の中に、目に見えない温かな気が満ちているような気がした。
 昨日、計らずも楽進の胸に抱かれたことを思い出される。
 その直後から、急に体に力が入るようになった。
 痛みは変わらず続いている、否、むしろ強まった気がするが、冷え切っていた体に熱が戻り、幾らか滑らかに動かせるまでになっている。
 勿論、怪我をしているところを動かすのは難儀だが、くたばり掛けが重症患者くらいまでには戻ってきた感があった。
 急速な復調は、恐らく楽進との接触によるところが大きい。
 現代においての陸遜がそうであったように、他者からの『正の感情』を吸収することで力と成しているのだろう。
 ただ、陸遜が特定の人物との相互的な好意のみだったことに対し、犀花の場合、厚意以上であれば誰が相手であっても力として得られることになる。
 楽進の様子からいって、犀花に対し恋愛感情があるようには思えない。
 如何に犀花が鈍いと言っても、こればかりは自信がある。
 さておき、ということはつまり、条件や個人において差があるということだろうか。
 陸遜の場合は、より濃密な性的接触を良しとしていた。
 昨日の楽進との接触は、犀花の方は裸体ではあったが、腕に抱かれただけだった。
 この点を見ても、ずいぶんと違いがある。
 では、と思考がずれる。
――私がどうしようもないのは、仕様ってことか。
 つまらない言い訳もあったものだ。
 淫乱である正当性など、得たいと願っていた訳ではない。
 何故か、趙雲の顔を思い出した。
 月明かりに照らされ、口元に薄く笑みを刷いていた、何を考えているのか全く察せられないあの顔だ。
 初夜を孫策に奪われて、激昂するどころか終わるのを大人しく待っていた。
 あの時の趙雲は、このことを知っていたからこそ冷静だった、とでも言うのだろうか。
 我に返る。
 ぼんやり考え込んでいたことに焦り、顔を上げると、悩まし気に眉を寄せた李典が映った。
 犀花の視線を受け、こちらもはっと顔を上げる。
 白い肌にさっと朱が走る様は、男だからこその色気があった。
 思わず見入ると、露骨に顔を逸らされる。
 何故だか、ここで目を逸らしたら負けだという強迫観念に襲われ、じっと見詰めてしまう。
「……何だよ」
 悪態を吐かれるが、目が離せない。
 見詰め続けることにより、李典の頬はますます鮮やかに色付いていく。
 皮肉屋な雰囲気に反し、意外と照れ屋なのかもしれない。
 一向に見るのをやめない犀花に苛立ってか、李典はとうとう背中を向けてしまった。
 丈のある薄地の頸巻が翻り、軽やかに弧を描く。
 準武将のそれとは明らかに違うキャラデザインが、やはりどうしても不思議だ。
「だから……」
 あまりに凝視していたせいか、李典の声があからさまに焦れている。
 頭は下げるものの、目は離さない。
「あんたな」
 李典の方は、怒りが長じて呆れに転じたらしい。
 見るからに肩が落ち、吊り上がっていた眉尻も下がった。
 細く長い溜息を吐くと、辺りを見回す。
「……椅子もないのか、この部屋」
「あぁ」
 椅子なら、質素な作りの丸椅子が一つ、あった。
 ただ、何故か松柏が片付けてしまう。
 正確には、医師が訪れたり松柏が何か置く時だけ椅子が出され、用が済むと仕舞われる、といった寸法だ。
 寝たきりの犀花には、椅子の仕舞い場所が分からない。
「仕舞ってある、と、思うんですが……」
 どうしたものだろう。
 名前を呼ぶなと言われている以上、松柏の呼び方に悩む。
 李典が横にいるというのに、『おい』だの『ちょっと』だのと大声出してよいものだろうか。
 何であれ、李典が訪ねてきたことは分かっているだろうに、松柏が椅子を持ってきてくれないのが訝しい。
 困惑する犀花に、李典もまた眉を寄せる。
 手持無沙汰に辺りを見回すも、結局腰に手を当てて済ませたようだった。
「まぁ、その、何だ。
俺が頭を下げるのは筋違いだとは思うが……」
「あ、そうですね」
 奥歯に物が挟まった言い様に、何の気なしに切り返す。
 途端に李典の眉が吊り上がり、犀花も慌てて補足する。
「いやその、だから言った通り、李典殿が謝罪する必要はないってことで!」
 思わず腕を振ったせいで、痛みが強くなる。
 呻いてうずくまる犀花の肩に、温かな手が触れた。
 ぎく、と体が震える。
 李典に伝わったか、手の感触がぱっと離れていった。
「あ、その、すみません」
「いや……」
 ばつが悪い。
 恐らく李典は、犀花が何かされるのではないかと怯えていると勘違いしたのだろう。
 見知らぬ男達に乱暴された後であれば、それは自然な推測ではある。
 犀花も否定はできない。
 ただ、本当にそうなのかはよく分からない。
 あの時の恐怖と共に、楽進に感じた高揚の記憶が新し過ぎた。
 犀花は、まだ動く方の手で頭を抱える。
 李典の戸惑いが伝わってきた。
 また何か勘違いされただろうか。
 ぱっと身を起こすと、李典と視線がかち合う。
 後ろに逃れるようによろけた李典は、自身の失態に頬を赤らめ、次いで腹立たし気に眉を吊り上げた。
 一向に話が進まない。
「あの」
 話を変えようと思った。
「楽進殿の、件ですが……」
 失敗した。
 目に見えて表情を強張らせた李典に、犀花はそう断じる。
 しかし、そもそも李典と共有できる話題が他にない。
 つまり、犀花に打てる手など最初からなかったということだ。
――だめじゃん。
 というか、李典にとって楽進という男は一体どういう存在なのだ。
 あれか。
 背景に薔薇の花が散るとかか。
 想像してみるが、何とも言えない気持ちになった。
 画面の向こうで眺めていただけならともかく、こうして間近に体温を感じる立ち位置となると、いかがわしい想像はどうにもし難い。
 意識を反らしているのがばれたのか、李典の眼差しは更に険しくなる。
 こうなったら、言うだけ言ってしまうしかない。
 ばくち打ちの心境で、犀花は話を続けることにした。
「な、何をした、とかは、ないんですけど……あの……」
 裸を見られた。
 これだけのことが、なかなかに言い難い。
 李典は、一人じりじりしている。
「……は……」
「は?」
 問う声に棘がある。
「……だかを、見られまして」
「だか?」
 繰り返しつつ、李典には理解ができなかったらしい。
 しばらくぽかんとして犀花の顔を見ていた。
 分かってなかったとしても、精一杯の説明であるから補足も入れられない。
 察してくれと念じながら、李典の視線を避ける。
 ややもして、李典の顔が赤くなる。
 先程のそれとは比べ物にならない。
「……なっ……にを、してるんだあんたは!」
「いやっ、いや、わざとでなく、体拭いてもらう時にたまったま……」
「隠せばいいだろう!!」
「や、だって、何もなくて……!」
「何かあるだろ、何か!」
「いやホントに」
「なくても隠せよ!」
「いやそれは無理というか……ていうか、無理!」
 そこで応酬が途切れ、沈黙が続く。
 やにわに髪を掻きむしり始めた李典は、肩を落として深い溜息を吐く。
 自身の内に沸き起こる葛藤があり、それを無理やり飲み下したのだろう。
 似てるな、と思った。
「……何だよ」
「あぁ、いえ」
 口を噤んだ犀花に、李典は追撃を掛けたものか悩み、結局やめることにしたようだった。
「いいけど、自重しろよ」
 言い捨て、背を向ける。
 何がいいのかさっぱりだったが、早く会話を切り上げたいという気持ちは伝わった。
 頭を下げて見送りの挨拶とすると、李典はちらりとこちらを向いて、そのまま立ち去って行った。
 一人取り残され、知らず溜息が漏れる。
 ふと気が付いて顔を上げれば、李典が立ち去ったとば口に松柏が立っている。
 ぎょっとした。
「最低な女」
 ぼそっと呟かれた声が、やけに耳に響いた。
 固まってしまった犀花には目もくれず、松柏は踵を返して駆け去る。
 呆然と見送るしかなかった。


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