一方、室を辞した張遼と司馬懿は、人気のない別室に二人で詰めていた。
「何だ、このような場所に」
 如何にも大袈裟、とばかりに司馬懿は鼻を鳴らす。
 しかし、張遼の眼差しに押され、すぐに軽口を引っ込めた。
 沈黙が落ちる。
 張遼が口を開くまで、しばしの時を要した。
 口が軽い将ではないが、わざわざ意味ありげな間を取る男ではない。
 余程言い難いことかと思いを巡らせば、その内容までは分からずとも、何の話かは予想が付く。
犀花殿のことですが」
 司馬懿の表情が渋くなる。
 犀花が現れてからこの方、揉め事が絶えないからこれは仕様がないのかもしれない。
 そもそも、犀花が現れたのが何もない空だったということが、騒ぎの元になっている。
 偶々それを見ていた兵士がおり、故に犀花捕縛へと繋がったのだが、あり得ない出現法だったが為に犀花の『正体』に関する噂は絶えなくなった。
 新兵を中心にした行軍だったのも災いしていた。
 人の口に戸は立てられず、想像は妄想を多分に含みながら、あらぬ方向へと成長する。
 先だっての苛烈な処分は、ある意味これらの浮付きに対する見せしめでもあった。
 その甲斐あって、浮付いた空気そのものは何とか鎮まったというのに、まさか張遼ほどの男まで動揺しているというのだろうか。
 司馬懿の落胆は、しかし見当違いだった。
 張遼は、動揺などしていない。
 あくまで冷静に、繊細に考察を繰り返し、遂に司馬懿に報告した次第である。
 曰く、犀花は『おかしい』と。
「何がおかしいと言うのだ」
 見たところ、犀花は糞生意気で礼儀知らずな点を除けば、極々平凡な女に過ぎなかった。
 将としての武も才も感じられず、兵士としてすら役立ちそうにもない。
 どうしてあの諸葛亮が重用しているのかも分からないくらいだ。
 そこまで言い募った時、司馬懿の目にはあの光景が浮かんでいた。
「まさか」
 あの時、あの若き呉将は犀花を大事に抱えていた。
 一人で逃げれば良いものを、己が身を顧みず必死に守り続けていたのだ。
 呉の姫君ならばいざ知らず、同盟しているとはいえ敵国の、たかが一文官に対してするべき献身ではない。
 ましてや、将として生きる者の行動ではなかった。
 あの将は、愚かにも一人の男として、女としての犀花に執着していたのだ。
 そう断じるより他、ない。
 犀花の『才』とは、もしや、そういうことなのか。
 美姫と称するに遠く及ばず、それらに類する才もなく、細やかの真逆をいく犀花に、そこまでの強い執着を生む理由が見出せなかった。
 ならば、答えは一つだ。
「信じ難きは、私も同じ。なれど、私は我が身を以てその証を見出した」
「何」
 司馬懿が目を剥く。
 張遼は苦笑を以ってそれに応えた。
「否、そうでなく……そも、私があの場に居合わせたのが、おかしなことではありますまいか」
「それは、そうだが」
 犀花が襲われた夜、張遼は寝付けず、少しばかり体を動かそうかと庭を抜け、犀花を運び出す怪しげな人影を発見した。
 検分では、張遼はそう答えていた。
「違うのか」
 張遼は、首を振る。
 言ったことに偽りはないが、そこから生じる主観については一切触れなかっただけの話だ。
 裁きに必要なのは正に主観を交えぬ事実なのだが、犀花の正体について追及するには、これら主観も捨て置けない。
「寝付けずという時点で、いささか奇妙と」
 戦の最中、幕営での中でならともかく、敵の気配もない城にあって目覚めるのは異例のことだ。
 それも、命を狙われたのが曹丕ならば合点も行くが、たかが一捕虜の災難である。
 将の室と牢は離れて配置されており、物音で目が覚めたということも無論ない。
 つまり、偶々目が覚めた張遼は、偶々眠り直すこともなく寝所を出、偶々犀花の難に出くわし、偶々息絶える前に救出したということになる。
 偶然がここまで重なるものだろうか。
 夜中の話、視界が良い訳もなく、当然相手は用心していた筈である。
 それを見付け、首尾よく助け出し、しかも途絶えたと思われていた息を吹き返したとなれば、あまりに出来過ぎと言わざるを得なかった。
 危急の際に呼ばれた、と見た方が、よっぽど自然だろう。
「しかし、そうなると幾つか矛盾が生じるな」
 噂通り、犀花に何がしかの魅了の力が備わっているとするならば、兵士達が手を出してくるのがまずおかしい。
 人を操る能力としても、ならば兵士が襲ってきた時点で、犀花がその能力を発揮し抑え込めねば辻褄が合わない。
 諸葛亮の策という考えもないではないが、兵士達への接触機会やら犀花の怪我の具合やらを慮れば、考慮するのも馬鹿馬鹿しい。
 何か条件があるのかとも思うが、あの呉将と張遼に共通する点がどうも浮かばなかった。
 しかも、その程度の差は大きい。
 命を賭して守ろうとするのと、変事に意図せず立ち会っての救助では、天と地ほどの差がある。
「やはり、偶然ではないのか」
 偶然が重なり過ぎているのは確かだが、偶然でないとする根拠が薄い。
「十日、ですぞ」
「うん?」
 顎に手を当て考え込んでいた司馬懿は、張遼の言葉に顔を上げる。
「十日の間、意識もなく、飲まず食わずで眠っていた者が、あの程度の消耗で済むものですかな」
 言われて、司馬懿は唸り声を上げる。
 先程の犀花の様子を思い返すに、多少具合は悪そうではあったが、衰弱までは至ってはいなかった。
 十日も意識がなければ体は弱り、当然のことながら死も考えられる。
 強靭なのか脆弱なのか、どうもちぐはぐだ。
 おかしいということだけが分かり、その正体は一向に知れない。
 兵士達の言うように、犀花は妖の者としか説明が付かなくなる。
 怪しげな存在は、必ず兵の動揺を誘うだろう。
 とんだ鬼門になりかねない。
「……曹丕様には、しばらく近寄らせぬ方が良さそうだな」
 入城して以来、曹丕の口から犀花の名が出たことはない。
 犀花が害された旨、報告した折でも『そうか』の一言で済んでおり、まるで興味を示さなかった。
 それでも、念には念を入れねばならない。
 犀花の正体が何なのか、見極めが付くまで曹丕に血迷われては困るのだ。
「将軍にも、見張りを立てさせて頂く。異存あるまいな」
 惚れた腫れたでないにせよ、張遼自身が己に疑念を持っている以上、用心するに越したことはない。
 張遼が頭を下げて了承するのを見届け、司馬懿は珍しく溜息を吐いた。
「まったく……移動さえできれば、早々に洛陽に送ってしまえるものを」
 犀花を今搬送するのは危険ということで、医師から許可が下りていなかった。
 呉将を取り逃がして以来、報復の強襲を警戒し続けている。
 敵の戦意を削ぐ為にも、犀花を城から追い出したいというのが本音だ。
 ところが、十日以上経つというのに呉は未だに動きを見せていない。
 速度を誇る呉軍であれば、三日もあればと警戒していたのだが、肩透かしを食らった心持ちだった。
 だからといって、このままで済むとも思えない。
 合肥は、呉にとって侵攻の足掛かりとも言うべき地だ。
 犀花に拘りはなくとも、新兵に追い掛け回された屈辱は、我がことのように感じていることだろう。
 些細なことでも理由にできれば、大義名分を得たとばかりに攻め入ってくる筈だ。
 ここまで間が空くということは、ここぞとばかりに戦力を整えていると見た。
 現状、新兵を抱えたこちらの不利は否めない。
 時が経てば経つ程、戦力差が開いていく不安があった。
 その差を埋めるのが軍師の力量と言えど、戦力差のない状態から策によって圧勝する形で力を示す方が気分がいいに決まっている。
 戦場で好き嫌いを言えるものではないが、この方寸ばかりは自由にさせてもらいたい。
「司馬懿殿」
 はっと我に返ると、張遼は変わらぬ姿勢で控えていた。
「……近々将軍には、大役を果たして頂くことになるやもしれぬ。自重されよ」
 甚だ嫌味たらしいが、司馬懿に嫌味のつもりはなく、張遼も嫌味と取ることはない。
 この辺り、二人の相性は悪くはないのだろう。
 司馬懿の『労い』に退室を促され、素直に従う張遼は、一礼して廊下へと足を向ける。
 見張りも立てずにいた廊下には、人の気配はなかった。
 だが、眼前の中庭に、一直線に走る人影がある。
 楽進だ。
 訊ねてみた訳ではないが、犀花のところに向かうのだろう。
 複雑な感情が、張遼の内で急激に軋み出す。
 嫌悪でも憎悪でもなく、羨望でも嫉妬でもない。
 強いて挙げれば憧憬が近いかもしれないが、それも少しばかり違う気もする。
 素直に、そうしたいと思うだけで駆けることができる、そんな楽進の性根は好もしい。
 それを真似たいとか、こき下ろしたいとかいう気はないのだ。
 むしろ、自分は何故それが出来ないのかと不思議に思っている、ような気がする。
 そういえば、司馬懿に楽進のことを告げなかった。
 犀花が眠りに就いた日、楽進は御付の武官が呼びに来るまで動かず、意識のない犀花の顔を見続けていた。
 魅了されているというのであれば、張遼よりも楽進の方が余程それらしい。
 ただ、張遼も楽進の退室を見届けるまで同席していた訳で、今思い返せば何故先に退室しなかったのだろう。
 これもまたおかしな話だ。
 城を任された将が、捕虜となった敵国文官の枕元に詰めるなど、司馬懿が知れば憤激すること間違いない。
 言わずにおいてもいずれはばれる。
 言わずにおいた張遼にも、当然矛先は向かうだろう。
「…………」
 中庭にあった楽進の姿は、とっくに消えて影もない。
 茫洋と眺めていると、視線を感じた。
 李典だった。
 常に浮かべた険が消え、困り事を抱えた幼子のような態でいる。
 おかしなことだ。
 こんな顔を人に見せる男では、なかった。
 犀花の持ち込んだ怪異が、城の中に満ちていく。
 そんな錯覚も、その錯覚を受け入れている張遼自身も、おかしいと思わないのがおかしかった。


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