冷たい感触に気付いて、重い瞼をこじ開けた。
 ぼやけた視界に、松柏と思しき人影が映る。
「ありがとう」
 応えはない。
 だが、それでいいと思っている。
 犀花に応じないのが松柏の意地だとすれば、礼を言い続けるのは犀花の意地だ。
 捕虜の身で、怪我をしているとはいえこれだけ世話になっていて、礼を言わない、は無い。
 手持無沙汰に息を吐く。
 深く細い吐息は、病人のそれによく似ていた。
 ややもして、体の上を蠢いていた濡れ布の感触が消える。
「ありがとう」
 目を閉じたまま、呟くように漏らす言葉にも、やはり応えはなかった。
 温かな人の気配が遠ざかっていく。
 気が緩むと同時に、意識が飛ぶ。
 穏やかな眠りとはまったく異なる、肌が泡立つような意識の喪失だった。
 ここのところ、犀花はずっとこんな調子でいる。
 いつからといえば、恐らくは、松柏から『最低』と罵られたあの日からだ。
 小石が崖を転がり落ちるような速さで、犀花は病みついた。
 医師も首をひねるばかりで、病因を定めるに至らない。
 色々と試されているようだが、結果が芳しくないのは重苦しい雰囲気で察しが付く。
 それはそうだろう。
 犀花がこの世界の人間でないと、魏の人間で知る者はない筈だ。
 まして、犀花がこの世界の人間の好意を糧としていることを知る由もない。
 どうしたものかな、と考える。
 これまでの状況から鑑みるに、ある程度以上の好意をもって迎えられれば、犀花は健康でいられるようだ。
 ならば、その逆もあり得るのではないか。
 過去、犀花は幾度となく体調を崩してきた。
 その内の何割かは、本当の病気だったのかもしれない。
 けれども、最初の趙雲の屋敷での冷遇時、また呉での孫策失踪時など、周囲の人間からの悪感情に晒された時、犀花は必ず体調を崩してきた。
 周囲の感情によって体調が変動するのだとすれば、今回の不調の原因は言わずもがなであろう。
 松柏の忌々し気な視線が蘇る。
 理由は定かでないにせよ、松柏が犀花を嫌っているのは明らかだ。
 嫌っているというよりは、憎んでいると言って差し支えないかもしれない。
 何故だろうと訝しむことはできても、察するところに至らない。
 例えば、処刑された魏兵が松柏の身内だった可能性もなくはないが、その程度の可能性を挙げていけば限がなくなる。
 それに、そんな理由だったとしたら、犀花に講じる手段がない。
 ただただ、こうして病み衰えていくしかなさそうだった。
 もうすぐ死ぬな、という確信があっても、おぼろげに嫌だなあ程度にしか感じない。
 そんな自分をおかしいとも思わない。
 気力までもが喪失している証だろう。
――まあ、いいか。
 埒もない思考も、遂に途絶える。
 犀花は、白色の空間に沈むような錯覚に落ちていった。

「貴様」
 薄く開いた瞼の先に、司馬懿の姿がある。
「……死んだ真似など、悪趣味にも程があるぞ!」
 いきなり怒鳴られる。
 したくてしている訳ではない。
 そも、真似でない。
 口に出さずとも伝わったのか、司馬懿の眉が吊り上がる。
「貴様に死なれると、我等が叱責を受けるのだ!」
 死んでもいいが死ぬなと、無茶を言われる。
 焦っているのだろうし、慌ててもいるのだろう。
 気の毒に思うが、こればかりは致し方ない。
 自然に治るものなら、とっくに治っている筈だった。治らないのは、治らないなりの理由があってのことだろう。
 どうしようもないことをどうにかしようともがくのは、人間の性だろうか。
 同情されているとも知らず、司馬懿は一人ぶつぶつと愚痴っていた。
 不思議になる。
 犀花を失ったからといって、それ程叱責されるものだろうか。
「されるわ、馬鹿め!」
 鋭いツッコミが飛ぶ。どうやら、口に出ていたらしい。
 それでも、分からない。
 臥龍の珠、珍鳥という呼称からして、何がしかの価値は見出されているらしいことは分かる。
 だからといって、司馬懿がここまで焦る程の叱責があるものだろうか。
 我等と言うからには、司馬懿のみならず曹丕にもとばっちりがある、という意味だろう。
 司馬懿である。また、曹丕である。
 魏軍において相当の重鎮になるだろう司馬懿と、次期魏王たる曹丕を咎める程の失態に当たるものだろうか。
 護衛がヘマして殺されたならまだしも、不治の病となれば仕方ないと思うのだ。
「医師が、処置なし、と、言ってるんでしょう」
 それで罪に問われるのでは、あまりに理不尽だ。
 犀花の言葉に、司馬懿の顔から表情が消える。
 怒らせたか、と思うも、そうではなかった。
「貴様は、馬鹿か」
 単に、これ以上なく呆れただけだったらしい。
 何か言いたげに口を開くのだが、焦れて唇を噛み、結局黙る。
「……貴様は、馬鹿か」
 同じ言葉を繰り返される。
 大事なことらしい。
 深い溜息を吐くと、背後を振り返り、椅子がないことを思い出したかもう一度溜息を吐く。
 腰に手を当てるに留め、犀花に向き直った。
「いったい、諸葛亮は何をもってお前を『珠』などと称したのか……」
 分からん、と司馬懿は首を振るが、それは犀花にも分からない。
「諸葛亮は、貴様をどう使っていたのだ」
「どう……と、言われても……」
 有体に言えば、呉に対する『餌』である。
 呉将という鯛が釣られてくれるよう、駄目元で放たれた海老以外の何物でもなかった。
 実際は、駄目元どころか爆釣りもいいところで、犀花が頭を抱える結果となっている訳だが、そこの辺りは触れずに置くのが吉だろう。
 とは言え、爆釣りの要因には呉の奔放な気質にもあり、魏で再現されるとは到底思えない。
 魏での犀花の価値が分からない所以でもある。
 犀花の疑問を覚ってか、いかにも嫌そうながら、司馬懿が口を開いた。
「お前を欲されているのが誰だか、知らぬ訳ではあるまい?」
「……はあ……」
 捕まった際に曹丕が言った言葉を、忘れた訳ではない。
――父が欲していた、珍鳥だ。
 父、即ち曹操が犀花を欲している。
 だがしかし、なのである。
 曹操自身が犀花を欲する理由が、今ひとつピンと来ない。
「蔡文姫という名を、耳にしたことはあるか」
「蔡文姫」
 頭の中に検索を掛ける。
 霞み掛かった脳内のこと、結果に辿り着くにはしばしの時間を要したが、運良く正答が導き出された。
「たしか、才女、という……」
「そうだ」
 ならば分かるだろうとばかりに、司馬懿は鷹揚に頷く。
 分からない。
 司馬懿のこめかみに血管が浮き上がっていく。
「才女とはいえ、女一人の為に自ら率先して動いた方なのだぞ」
 それは知っている。
 だから、何だというのだ。
「……貴様、わざとやっているのではあるまいな」
 唸り声を上げる司馬懿だったが、すぐに平静を取り戻す。
 今の犀花にそんな賢しい真似ができるものではないと、一応冷静に判断してくれたのだろう。
 溜息を吐き、辺りを見回す。
 椅子がないので、落ち着かないようだ。
 身分の高い者相手であるならまだしも、犀花を前に膝をつくなどあり得ないし、立ち尽くしたまま話を進めるには焦れるのだろうと思われる。
 椅子は、相変わらず松柏に仕舞われたままだ。
「……曹操様は、貴様の才を欲しておいでだ」
「はあ?」
 間髪入れない、また恐らくは最も神経逆撫でする模範例のような犀花の返しに、いったんは収まった司馬懿の血管が盛大に浮き上がる。
「貴様、私を馬鹿にしているな!?」
 してない。
 首を振る。
 体が重過ぎて、否定するにもこれが精一杯だ。
 険しい視線の源たる目は血走り、犀花を睨め付けている。
 犀花にとって、愉快なキャラ扱いの司馬懿だが、眼前に在ればさすがに気圧された。
 さすが、腐っても魏のメイン武将の一人だ。
 本人には決して言えない。
 犀花の思考を見透かすように細められた目から、不意に力が抜ける。
「貴様は歌を歌うのだろう」
「……あぁ、まあ……」
 歌うには歌う。
 そこで、唐突に気付いた。
「あぁ」
 もしかして、曹操は犀花の歌う奇態な歌を、至高の何かと誤解をしているのやもしれない。
 犀花としてみれば、絶対誰も聞いたことがないというだけの代物という認識だったから、過剰な期待をされている可能性に気が向かなかった。
 何となれば、曹操がアニソン聞いて浮かれるという状況が、微塵も想像できなかったのである。
「たぶん、誤解、じゃないかと」
「何が誤解だ、馬鹿め」
 そう返されると、どう説明していいのか分からなくなる。
 司馬懿自身、犀花の『歌』を聞いたことがあるくせに、それでも犀花に価値があるとでも思っているのだろうか。
 むしろ、犀花を連れて帰った方が、より厳しい咎めを受けそうなものだ。
「判断されるのは、曹操様だ。私の判断で勝手をしていい筈もない……だというのに、貴様は」
 じろじろ不躾な視線が飛んでくる。
「……つい先日までは、確かに快方に向かっていたというのに……何だというのだ」
 犀花の体質を知らない司馬懿には、不思議でたまらないのだろう。
 とは言いつつも、説明する気にはなれない。
 この体質のことは、できるだけ秘密にしておきたかった。
 にも関わらず、司馬懿は何の気なく犀花を追い詰めに入る。
「まさか、誰ぞに毒でも盛られているのではあるまいな」
 司馬懿の言葉に、犀花の口元が引き攣った。
 秘密にしようと心に決めた瞬間、当たらずとも遠からずな一言だっただけに、衝撃が大きい。
 悪いことは重なるもので、柱の影から覗き込む松柏が視界に入ってしまう。
 目が松柏を捕らえた瞬間の動揺を、犀花は抑え込むことができなかった。
 司馬懿が見逃すわけがない。
「貴様か!」
 松柏の目が丸く見開かれる。
 司馬懿の手が恐るべき早さで伸び、松柏の細い首を捕らえる寸前に見えた。
 犀花の視界が、白く染まる。
「やめろ」
 低い、冷たい声音だった。
 松柏も、そして司馬懿も、ぎょっとして動きを止める。
「また殺す気か」
 声音を発していたのは、犀花だった。
 およそ人のものとは思えぬ暗い色の眼に、司馬懿は知らぬ間に冷や汗をかく。
 動きが止まった為なのか、犀花の放つ痺れるような殺気が、ほんの少し和らいだような気がした。
「リセットかますぞ、ボケ」
 耳慣れない単語のせいでか、司馬懿は自分を取り戻す。
 犀花の目から急速に光が失せ、力なく閉ざされた。
「……医師を、呼べ!」
 司馬懿の怒声に、松柏はその場に飛び上がり、血相を変えて走り出した。
 突然の恐怖から解放されたこともあってか、足取りはよろめいていたが、あっという間に廊下へ飛び出していく。
 忌々し気に見送った司馬懿は、急ぎ犀花の元へ戻ると、慌てて脈をとる。
 冷たい肌に怯むも、探った指の下には微かながらしっかりと脈が感じ取れた。
 一安心である。
 それにしても、だ。
「……りせっと?」
 医師の到着を待ちつつ、ぽつりと呟く。
 聞き覚えのない言葉だった。
 犀花の素性が明らかでないらしいことを、今更ながらに思い出す。
 改めて犀花に目を向けようとした、その時だ。
「司馬懿様!」
 医師の到着を知らせるものではなかった。
 では、何を知らせるものなのか。
 司馬懿は瞬時に覚っていた。
 前線ならではの難局が、今、訪れようとしている。


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