呉軍襲来の一報に、合肥城はにわかに騒然とした。
そんな中でも、冷静な者は在る。
「どう見る」
曹丕の声音に不安の色はない。
今朝の天気でも問うかの如く、淡々と尋ねる。
「……は……」
対する司馬懿は、やや神経質そうに眉を顰めている。
両者の、戦に対する心構えのようなものが、これらの態度に関係しているのかもしれなかった。
とはいえ、司馬懿も臆している訳ではない。
「時期が、いささか微妙ですな」
司馬懿の言を、李典は兵の質を指しているのだろうと捉えた。
先日、曹丕が率いてきた兵達は、数こそそれなり揃ってはいたが、そのほとんどが新兵という有様だった。
使えない訳ではなかったが、実戦の経験がなさ過ぎる。
合肥は、激戦区の一つではあったが、ここ最近の呉の動きが穏やかだったせいもあり、実地訓練には丁度いいとばかりに派遣されてきた次第だ。
無論、事態が急変すればいきなり実戦の可能性もないではないが、使い捨てにするつもりがないのは、同行する曹丕そして司馬懿の存在からも明らかである。
練兵のお手並み拝見と、不謹慎ながら期待していると、二人は想定外の話をし始めた。
「ここまで遅くなった理由は、なんだ」
ぽかんとする。
どうやら曹丕は、呉軍の侵攻速度に疑問を抱いているらしい。
そんなことが、何の問題になるというのか。
不満にも似た訝しさから、李典は耳をそばだてる。
「怒りに任せて侵攻するということであれば、もっと早い時期に動いていた筈……恥辱はあくまで表向き、大義を得たつもりの侵攻であれば、今少しは備えに専念しそうなものですな」
曹丕は軽く頷く。
思考が同調したのか、やや満足げに見えた。
もっとも、常に眉間に皺を浮かべているような曹丕であったから、表情から察するなど至難の業に等しい。
満足そうだと気付けたのは、それだけ曹丕に慣れてきたということかもしれない。
「敵方の侵攻に、何か問題でも?」
楽進が口を挟む。
止める間もない。
案の定、司馬懿から白けた視線を向けられる。
「侵攻が問題なのではない、侵攻に至るまでに掛かった時間が問題なのだ」
嫌みたらしい口調だが、楽進は極真面目に聞き入っている。
「敵の、それも新兵風情に、教練の的扱いにされたのだ。ただでさえ血の気の多い連中が、報復に出ない訳がない……その、報復を決定するまでに掛けた時間が、どうにも中途半端だと言っているのだ」
「はぁ」
分からないと顔に書いてあるような様の楽進に、司馬懿は苛々しながらも説明を続ける。
「要するに、急ぎ侵攻に赴きたくとも、内部で何らかの軋轢があって遅参したのだろうということだ」
「成程」
理解したような口振りだが、楽進の表情は然程変わっていない。
分かっていないのだ。
「……だから、内部が一枚岩でない以上、付け入る隙はある、と! そう言っている!」
「あぁ!」
楽進が晴れやかな笑みが浮かべる。
如何にも芝居がかった仕草で手を打つが、素でした行動だと思われた。
何せ、楽進だ。
「成程、さすが軍師殿ですな!」
心からの褒め言葉に、司馬懿は眉根を強く寄せた。
それこそが芝居であることは、抑え切れない口元の笑みで分かる。
傍から見ている分には茶番この上ないのだが、曹丕の前では素直に笑うことも出来ない。
肩に力を込めて、姿勢を正すことで堪えるのが精一杯だ。
と、張遼の澄まし顔が目に留まる。
途端、和やかな気持ちが掻き消えた。
大軍が押し寄せてきているらしいというのに、張遼のこの冷静さはどうだろう。
嫌いな相手だからということもあるが、ますます嫌いになれそうだった。
そんな李典の心を察したのかどうか、その張遼が口を開いた。
「犀花殿は、どういたしますか」
「……うむ」
得意げだった司馬懿が、突然悩み始める。
「どう、とは?」
楽進が口を挟む。
懲りない男である。
司馬懿の眉尻がきっと吊り上がり、楽進を睨め付ける。
楽進が首を竦めた。
先程と何が違うのかは分からないが、今回は叱られたと取ったのだろう。
というか、司馬懿の感情を最も正確に見抜いての反応なのかもしれないが、李典としては己もあやかりたい類の特技とも思えない。
「運び出せるのであれば、移動させてしまいたいところではあるが……あの様子では、無理であろうな」
衰弱が激しいらしく、薬も効き目がないと医師が狼狽えている有様だ。無理をすれば、移動の途中で死んでしまうかもしれない。
曹操が欲しているのは、異郷の歌を何千も歌い囀る鳥であり、その亡骸ではないのだ。
だが、心の病とも疑われている犀花を戦地に置いて良くなるとも思えず、司馬懿の苦悩は深かった。
張遼が案じているのも、その点だろう。
かといって、城を抜けて離れた場所で戦をするのも無謀な話だ。
合肥城は、軍の背後にあってこそ大いに威力を発揮する。
堅固な守りとして、また危急の場合の逃げ場として、使わない手はない。
味方が新兵ばかりとなれば、尚のことである。
そも、相手あってのことである。
そう上手く事を運ばせてはくれまい。
城で寝かせておくのが最良である。
むしろ、それしかない。
司馬懿の出した解に、張遼は何故か困惑しているように見えた。
誰が考えても同じ答えになると思うが故に、敢えて問うた張遼の本意が分からない。
更に、何を以て困惑するのか。
戦場に在って女のことを気に掛けるような男ではなかった。
落胆している自分にも苛ついて、李典は拳を握り込んだ。
月も沈んだ夜半、犀花の室を訪れた者がある。
欠伸を噛み殺していた見張りの兵は、その人影に気付いた瞬間、目を見張った。
「そっ……曹丕様!?」
曹丕を前にした兵は、震えてさえいる。
そうあって然るべき威厳が、曹丕にはあった。
「良い」
一言で、兵は当然のように扉を開いて曹丕を招き入れ、曹丕は室へ踏み入れる。
背後で扉が閉まると、室の中は暗闇に落ちた。
が、曹丕の歩みは止まらない。
視えているかのように、滑らかに足を運ぶ。
着いたのは、犀花の眠る寝台だ。
固く閉じた眼は、曹丕が傍らにあっても開く気配すらない。
死んでいるようにも見えた。
曹丕の指が、犀花の唇に伸びる。
触れて初めて、弱々しい吐息を感じることが出来た。
指は、そのまま犀花の口の中へ侵入する。
緩く閉じた歯に触れ、その形を確認するようになぞってみた。
反応はほとんどない。
本当に、死んでいるかのようだ。
ややもして、指先に生温く絡みつく感触があった。
じんわりと滲み出た唾液は、曹丕の指を伝って犀花の口の端から滴り落ちる。
生きている。
微弱な呼吸より、余程実感できた。
この唇から、歌が紡がれたことを思い返す。
聞いたこともない歌を歌うと、最初は何の感慨もなく噂を聞いた。
そんな馬鹿な、と半ば疑っていたせいもある。
異国の歌であろうと、まったく耳にしたことがない、馴染のない音楽があるとは思えなかった。
ところが、実際に聞いてみると、名状しがたい奇怪さだった。
歌と称していいのかすら躊躇う不可思議な詞と旋律は、耳で追うのが精一杯で、再現するに至らない。
そんなものを堂々と歌いこなしておきながら、犀花の表情は不安の色が濃く見え隠れしていた。
捕らえた時もそうだ。
呉将をかばい、敵兵から剣を奪う豪胆さを見せながら、曹丕に斬り掛かってくる顔は今にも泣きそうだった。
馬に積めば平然と礼を言い、敵に対して愚直にも頭を下げ、と言って下卑た媚びを売るでなく、無様な虚勢を張るでなく、まったく理解し難い存在である。
唾液を絡めた指で、唇をなぞる。
意識のない筈の、犀花のそれが震えた。
ぞくっ、と、曹丕の背筋に走り抜けるものがある。
何かは分からない。
突然沸き起こった疑念に、思わず己の唇に指を当てる。
冷たかった。
それ以上に、己の唇が熱いという事実に愕然とする。
感じた熱の差が、理不尽に曹丕を打ちのめしていた。
その理由もまた、分からない。
犀花の顔を見下ろす。
血の気の失せた、病に侵されている女の顔だ。
常であれば、それであっても興味をひかれる理由はない、平凡な女の顔だ。
「……お前を欲しているのは、魏王、曹操だ」
囁く。
応えはない。
「だが、お前を捕らえたのは、この私だ」
再び唇をなぞる。
やはり応えはない。
ただ、薄く開いていた唇が、微かに蠢いた。
気のせいかもしれない。
けれども、曹丕にとっては確信に足る事実だった。
踵を返し、室を後にする。
曹丕の退室に際し、見張りの兵は平伏せんばかりに頭を下げ、その爪先すら目に入れようとしない。
だから、口元に艶やかな笑みが浮かべた曹丕のことを、知る者は遂になかったのだ。
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