最初、目に映ったのが何なのか理解ができなかった。
否、さすがに『何か』は分かる。
天井だ。
ただ、見覚えがなさ過ぎて、一瞬天井を天井として認識できなかったようだ。
それにしても静かだ。
ここは、どこなのだ。
呆けたように飽かず天井を見上げていると、徐々に何か聞こえてきた。
突然、視界の中に見知らぬ男達の顔が湧き出す。
比喩でなく、視界という円の四方八方から、少なくとも十人ばかりの男達が押し合いへし合いして犀花の顔を覗き込んでいる。
内の一人が犀花の顔に手を伸ばしてきて、思わず悲鳴を上げた。
が、悲鳴は音にならず、犀花の喉に激痛が走る。
同時に、体のあちらこちらに大小問わない痛みや不快感が噴き出した。
暴れようにも、体が上手く動かない。
どころか、動かそうとしただけで痛みが増していく。
苦痛の蟻地獄とも言えそうな状況に、犀花の混乱は果てがない。
「大丈夫」
小さな、か細い声だった。
少女特有の軽やかな声は、犀花の周りを囲む男達から放たれたものとは考え難い。
では、誰だ。
視線を巡らせるのも苦痛が伴う状況で、何故か犀花は執拗に声の主を探していた。
必死に力を込めると、ようやく顔が横の方を向く。
男達の顔に体が繋がっていることに驚き、また安堵しつつ、その隙間から少女の姿を見出すことに成功した。
松柏だった。
いかにも心許なさげな様は初めて目にするもので、他人の空似かと思い掛けた。
けれど、やはり、どう見ても松柏である。
犀花の視線を受けて、逸らすことなく受け止めている。
見目は松柏でも、中身はまるで別人のようだった。
その唇が震えた。
「大丈夫」
先程と同じ声音だった。
「大丈夫……大丈夫だから……」
念仏のようだ、と、不謹慎にも思ってしまった。
無性に可笑しくなって、体から力が抜ける。
意識も飛んだ。
目が覚める。
先程と同じ天井が目に入り、また可笑しくなった。
視界に入り込んでくる人影がある。
松柏だった。
犀花と目が合うと、身を翻して駆けていく。
と言っても、首が痛くて動かせず、ぱたぱたという軽やかな足音でそう判断しただけの話だった。
間もなく、ぞろぞろと大勢が入ってくる気配がある。
ぎょっとした。
囲んだ男達の衣服に血が飛んでいたからだ。
固まる犀花をよそに、男達は犀花の手を取り目を覗き込み、頷き合うとそそくさと立ち去って行った。
何なのか。
また、松柏が顔を出す。
「もう、大丈夫だろうって」
大丈夫の言葉に、松柏の念仏を思い出し、思わず口元が綻ぶ。
犀花の笑みをどうとったのか、松柏は頷き、姿を消した。
今日は松柏の機嫌が妙にいい。
普段とあまりの違いに、逆に不安になる。
松柏が水桶を手に戻ってきた。
有無を言わさず顔を拭かれる。
温かい。
湯を使ってくれているのだろう。
松柏の気遣いが身に染みる。
顔や首回り、髪や地肌に至るまで、丁寧に拭かれる。
終わる頃には、生まれ変わったような心持ちにすらなった。
心なしか、あれほど痛くて動かなかった首も、無理をしなければ痛みなく動かせるまでになっている。
落ち着けば、周囲の様にも意識が向いた。
物音が微かに響いてくる。
うるさい訳ではないが、どこか騒然としているような気がする。
寝ている前もそうだっただろうか。
どうにも記憶が曖昧だ。
そも、いつから寝ているのか。
松柏に訊ねれば早いのかもしれないが、何とはなしに気が引ける。
その松柏は、清拭に入るでなく、ぐずぐずとその場に居続けていた。
顔を拭いて首を拭いて、上掛けを盛大にまくり上げて体を拭いて、終わったら上掛けを投げかけて仕舞、そうでないなら何もしないというのが常だったので、理由も分からず丁寧にされるのが落ち着かない。
寝ている間に何かあったのだろうか。
しかし、話しかけ難い。
松柏には嫌われていると理解しているからこそ、『訊ねる』という親しげな行為が躊躇われた。
逡巡していると、松柏と目が合う。
戸惑った表情だった。
鏡を見ているような、不思議な錯覚に襲われる。
「……あの……」
最初に声を発したのは、どちらだったのか。
続く言葉は、乱雑な足音に掻き消された。
殺気立つ兵達の乱入に、犀花は息を飲む。
「お前、来い! ……来い!」
寝台から引きずり落とされ、そのまま腕を取られて体を持っていかれる。
罪人の如き扱いにも、弱り切った犀花には為す術がない。
背後で悲鳴が迸る。
兵に突き飛ばされる松柏の姿が見えた。
「松柏!」
叫んでいた。
「いいから……私はいいから、いいからね!」
格好つけるつもりで言ったのではない。
何を言わんとしているのか、自分でも分からなかった。
とにかく松柏に何かされてはいけないし、されては嫌だと思った。
自分に何をされるのかまったく分からないが故に、松柏の無事を願ったのかもしれない。
室から連れ出されると、引きずられるままに廊下を進む。
しばらくすると、何とも言えない嫌な匂いが鼻をついた。
壁にもたれかかるように座る兵達は、皆うなだれ力ない吐息を漏らしている。
手足、肩、頭など、どこかしらに怪我を負っているが、演習などで受けた傷でないのは一目瞭然だった。
背筋に寒気が走る。
そこにあるのは、立ち込めた戦場の匂いであり、空気であり、色だった。
犀花が眠っている間に起きていたこととは、戦だったのだ。
理解はできても、頭がついていかない。
いつ、どうして、何故、と、疑問が湧いては渦を巻き、増えはしても消えはしない。
犀花を連れた兵達は、犀花を小突きながら廊下を突き進む。
どん詰まりにある階段を昇り始めると、犀花の感じる寒気は尋常ではなくなった。
そこで初めて身をよじって抵抗の意思を見せるが、屈強な兵の前では微風のようなものだ。意にも解されず、小突かれる力が強まっただけに終わり、犀花は階段上へと連れていかれる。
差し込む光で、その階段が外に繋がっているのが分かった。
聞こえてくる声がどんどん大きくなってくる。
わぁわぁと、興奮した人の叫び声が入り混じった独特の声だ。
歓声ではない。
怒声と悲鳴を掛け合わせ練り上げた、犀花が聞いたことのない異様に殺気じみた声だった。
聞いたことはない、けれど察することはできる。
全身の毛穴が開き、ねっとりした脂汗が滲み出してくる。
光が強くなり、犀花の目を刺した。
ほんの一度瞬きをした間に、世界は一変する。
そこに広がっているのは、果てなく続く戦絵図だった。
何百何千もの兵達が、剣を槍を振るい戦っている。
雄叫びを上げて飛び掛かると、刃がかち合い火花が散り、血が噴き出し悲鳴が上がった。
勝った方は咆哮を上げて次なる獲物に向かい、負けた方はその場に崩れ落ちる。
「…………」
絶句する。
さながら戦争映画の様相だが、この『絵』には果てがない。
縁や枠のない絵は安定せず、犀花を足元から飲み込んで一体化していく。
つまり、犀花は彼らの獲物足り得る存在となったということだ。
殺される、ということだ。
――怖い。
体が震える。
膝から力が抜け、不意に体が沈む。
首筋にひやりとした感覚が走り、青い空に赤く飛沫が舞った。
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