時は遡り、舞台は呉へ移る。
崖を落ちた陸遜は、そのまま坂を下りて逃げ果せ、無事の帰還を果たしていた。
これは、智謀の才あっての結果であることは勿論、追手が掛からなかったことも幸いしている。
だが、自身の損害が軽微だったことこそが、却って陸遜を苦しめていた。
仮に司馬懿の策だとしたら、これ以上の効果はない。
陸遜を苦しめる要因は他にもあった。
「こんなところにいたのですか」
耳に心地よく響く涼やかな声は、けれども陸遜をうんざりさせるばかりだ。
「……練師殿……」
感情を隠さない眉間の皺を晒すも、練師の微笑みは崩れずにいた。
「皆さんが心配していましたよ」
すっと陸遜の隣に立つ。
自然な仕草に、敢えて距離を置くほど陸遜も幼くない。
とはいえ、素直に目線を向けるほど大人にもなれなかった。
「痣ももうだいぶ薄くなったようで、良かった。ご帰還の際は、女官達が騒いで仕方がなかったのですよ」
揶揄うような口振りに、しかし乗れない。
無言を貫く陸遜に、練師は辛抱強く言葉を重ねる。
「……そろそろ、軍務に戻れそうですか?」
殿が気にされています、と、小声で足された。
陸遜の負傷は軽微なものだった。
それこそ、実戦でなければ何ら問題のない程度の怪我であり、だからこそ早期の復帰を望まれていることも察している。
察してはいるが、だからこその憤りが、陸遜の内を焼いていた。
「まだ、諦めていないのですか?」
駄々っ子をあやすような優しい声音だったが、癒しはない。
今の陸遜にとって、そんなお為ごかしは火に油を注ぐようなものなのだが、どうしてか練師には理解されないようだった。
練師だけではない。
孫権も、周瑜も、呂蒙も甘寧も凌統も、あの孫策でさえ、誰も彼もが陸遜を理解してはくれなかった。
陸遜はただ、犀花を救けに戻りたい。
その一心で訴えた侵攻は、君主孫堅からあっさりと却下された。
曰く、その時ではない。
曰く、侵攻に足る理由ではない。
静かに、けれど有無を言わさぬ『決定』だった。
その断を下した声音は、陸遜の鼓膜に今も焼き付いている。
脳内で何度も繰り返し再生される声は、陸遜をある妄想に駆り立てた。
――ここは、この地は、本当に呉なのか。
そんな馬鹿な、と陸遜も思う。
けれども否定しきれない。
それほど、皆の人となりが変わってしまっていた。
陸遜の知る呉将であれば、犀花を取り戻すことに躊躇いなどなかったはずだった。
常に機は我にあり、と嘯くだけの自信と実力を持ち、理由など後付けで良い、と一蹴する。
得体のしれない熱を孕んだ、だからこそ心強く愛おしい国だった。
それが、がらりと変わってしまった。
何が起きたのかと陸遜なりに探ってはみたが、何も掴めなかった。
逆に、陸遜の方こそがおかしい、何があったのかと訝しまれる有様だ。
心身の疲労を案じられ、労わられ、あまつさえ犀花のせいだと遠回しに責められるのがどうしようもなくもどかしい。
違う、犀花は自分を助けてくれただけなのだと訴えても、痛々しい目で優しく宥められる。
堪らなくおぞましかった。
この異常を、納得させられる知見が陸遜にはない。
焦燥は募るばかりで、犀花を案じながらも救出の手立てすら思い付かない。
どうすればいいのか。
落ち着こうにも、陸遜に孤独は許されなかった。
屋敷はもちろん、執務室も、鍛錬場も、城を抜け出して一人でいられる場所を見付けても、こうして探し当てられてしまう。
まるで、頑なな陸遜を無理やりこの異常に染め込もうとしているようで、嫌悪感が酷かった。
「……まだ、本調子ではないもので」
絞り出すように呟くと、練師は困った顔をして俯いた。
肩を丸めると、豊かな乳房が押されて艶めかしさが増す。
意識してやっているようではないが、それだけに性質が悪い。
努めて無視を決め込むと、練師は微かな溜息を漏らして一礼する。
去っていくのを気配で察しながら、陸遜も気付かれないように溜息を吐いた。
罪悪感が重く圧し掛かる。
練師は心優しい女性だ。
でありながら、孫呉の忠実な、有能な臣でもある。
陸遜の犀花救出のための進言を、一将の身勝手と真っ先に責めたのは彼女だった。
端麗な美貌を歪めることなく怒りに染め、義もない突発的な侵攻がどれだけ呉を貶めるのか、傷付けるのかと事細かに語り尽してくれた。
その上で陸遜の立場を汲み、思いに寄り添い慰めの言葉を掛けてもくれた。
非は完全に陸遜にあり、練師を逆恨みする筋合いはない。
あくまで蜀の文官である犀花を、呉が国を挙げて助けに向かう必然がなかった。
だが、どうにも方寸が静まらない。
「陸遜」
再び名を呼ばれる。
今度は、振り向かざるを得なかった。
「……周瑜殿」
ぎこちなく拱手の礼をとる陸遜に、周瑜は苦笑を見せる。
「まだ、悩んでいるのか」
「はい」
言い訳しても無駄と、陸遜は素直に認めた。
周瑜の苦笑は深まり、痛々しく陸遜を見詰める。
「この世は乱世」
誰もがわかっていることを、敢えて言葉にする。
その重みを、陸遜は誰より知っていると自負していた。
成り行きのようなものではあったが、家を滅ぼした相手の下に仕えている。
恨みこそないが、乱世の常の非情さに何がしか感じないこともない。
遅まきながら、周瑜も陸遜の出自を思い出したようだ。
「……あまり、思い悩まぬようにな」
軽く肩をたたき、見逃してくれた。
周瑜が去り、十分に距離が空くとようやく肩の力が抜ける。
ほっとしたのも束の間、またも声掛けられた。
「陸遜」
苦々しい思いを噛み殺して、振り返る。
気遣わし気な呂蒙に、笑みを作るのが精一杯だった。
次は誰が現れるのだろうか。
魯粛か、韓当、丁奉、あるいは黄蓋か、凌統か、甘寧か……。
皆が皆、言葉を変えて同じことを諭してくる。
曰く、『あんな女に何故そうまでして拘泥するのか』と。
何かがおかしい。
しかし、何がおかしいのかが分からない。
胃の腑の底に、どす黒く冷たいものがある。
どこからともなく注ぎ込まれるそれが、重みを増していくのを感じ、陸遜は疲れ果てていた。
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