賑やかな宴が催されていた。
 陸遜は笑みを浮かべ、勧められるままに杯を傾ける。
 笛と太鼓に合わせて舞う踊り子の妖艶さに、皆は手を叩いて喜んだ。
 どちらかと言えば、舞よりもそうした人々の顔を見ている方が面白い。
 じっとり熱い踊り子の視線には、敢えて気付かぬふりをした。
「やっと調子が戻ったみたいだな」
 隣にいた凌統が、酒瓶を突き出してくる。
「……そうでもありませんけどね」
 無愛想に杯を差し出す陸遜に、凌統の喉がくつくつと鳴る。
 幾度となく繰り返してきたような、馴染んだやり取りだ。
 杯を干す。
 横合いから伸びてきた腕が、間髪入れずに酒を足した。
「これは、孫権様」
 主家の子自らなる酌に、陸遜は慌てて杯に手を添え居住まいを正す。
「そう畏まるな」
 酒が入り、上機嫌の孫権は、今度は自らの杯を満たし一気にあおる。
 空になったと分かれば、また手酌し、あおって空にしてしまう。
 酒癖の悪さを見事に体現する工程に、陸遜は内心苦笑しつつもお目付け役を探す。
 周泰は丁奉と何やら話し込んでいるようだった。
 練師は、文官達の間を酌して回っている。こちらの様子に気付いてはいるようだが、害がないと見て素知らぬふりを決め込んでいるようだ。
 困ったものだな、と思いながらも、どこかくすぐったいような心地よさがある。
 賑やかな、そして穏やかな光景だった。
――やはり、私はどこかおかしかったのだろうか……。
 同盟を結んでいるとはいえ、蜀はあくまで敵である。
 むしろ、こちらの情けに付け込んで、あらぬ権利を主張してくるような厚顔無恥さに腹立たしく思う者も少なくない。
 犀花自身に微塵の非がない訳もなく、どちらかと言えば自業自得の結果である以上、陸遜があそこまでこだわる理由はなかったように思う。
 我がことながら、若さゆえの過ちのような気がしてきて、陸遜は密かに自嘲した。
 追撃の手が驚くほどなかったことを鑑みても、敵の狙いが犀花にあった、もしくは移ったことは想像に難くない。
 ならば、殺されることはあるまい。
 上げ膳据え膳とはいかずとも、命の保障くらいはされている筈だ。
 却って、陸遜が無駄な手出しをすることで要らぬ逆上をされる可能性の方が高い。
 蜀の方には練師が使者を向けたと聞くし、であれば動かぬことこそ最善だろう。
 後は、諸葛亮の判断に任せた方が良い。
 臥龍とて、たかが一文官に躍起になるとも思えない。
 折さえあれば何がしかの交渉に臨むやもしれないが、それとてどの程度の『折』になるかも分からない。
 犀花が重宝されるのは、あくまで呉に対してのいい餌だからで、他国の誰がどれほど有り難がるのか良くも悪くも想像がつかない。
 ふと、犀花の顔を思い出そうとして、思い出せなかったことに驚いた。
 その驚きもわずかなものであることに、陸遜は感慨めいたものを感じる。
 子供の頃に夢中になった遊びが、大人になったら然程面白くなくなっていた衝撃に似ている。
 大したことではないけれど、しかしぽつりと、深く穿たれるような寂しさがある。
 無事であればいいのだが、と案じる己に、やや傲慢を感じてもいた。
 忘れよう。
 酒の力を借りるべく杯をあおると、孫権が嬉しそうに注ぎ足してくる。
「私を潰すおつもりですか」
 陸遜の軽口に、孫権は大きく頷いた。
「ああ、そうとも! お前が潰れるまで寝かせてやらぬから、そのつもりでな!」
 響き渡る宣言に、宴の間はどっと沸き立つ。
 まるでそれを合図というかのように、新たな酒瓶が次から次へと運び込まれ、全ての杯という杯は満たされ、掲げられる。
「我らが呉に!」
 誇らしい叫びに、視線が集まった。
 神々しくも、女傑さながらに杯を掲げる練師の姿に、場は一気に盛り上がる。
――我らが呉に。呉のために。
 口々に叫び、あおり、また叫ぶ。
 興奮の坩堝に呑まれ、熱狂する場の一体感に溺れる。
 酒のもたらす酔いとは別種の享楽に、陸遜は意識が飛ぶような快感を覚え、のめりこんでいった。
 
 意識が戻ると、そこは見慣れた己の寝所だった。
 几帳面にも足が向いたのか、誰ぞに送ってもらったのか、記憶がない。
 泥酔後の不快さに打ちのめされながら、陸遜は腕を伸ばした。
 と、指先に何か触れるものがある。
 何となしに拾い上げて、陸遜はぎょっと目を見張った。
 冷たくて固い、小さなそれは、犀花がくれた携帯だった。
 なぜか、鳥肌が立つ。
 心臓が激しく脈打ち、陸遜はこみ上げるものに慌てて口元を抑える。
 全身に痺れが走り、瞼の裏の明滅が酷い。
 苦しく、息が詰まるような時間がしばらく続いた。
 不浄な衝動がようやく静まると、陸遜はよろよろと立ち上がる。
 手のひらの中で温まりもせず存在する携帯を、しげしげ眺め、捧げるように掲げる。
 月光を反射してきらめく携帯は、当たり前だが物言わずそこに在るだけだった。
――陸遜、これ、陸遜の携帯ね。
 どこか嬉し気に、なぜか自慢たらし気に、犀花は携帯を差し出してきた。
 そこそこ高価なものだと聞いた。
 犀花がそれほど裕福ではないことは、共に過ごして察して余りあるところだった。
 けれど、犀花は陸遜のために金を使うことを躊躇わなかった。
 財布をのぞき込み、うーんと眉を顰めていたことはあったが、それも陸遜に隠れてのことだ。
 控えめで、世話焼きで、抜けていて、短気で、恥ずかしがりで、気難しくて、懸命だった犀花の表情が陸遜の脳裏に次々再生されていく。
 気付けば、号泣していた。
 声にはならず、けれど開いたままの口からは音にならない悲鳴が迸る。
 恐怖がある。
 いつの間にか、これほど大事な恩を忘れようとしていた。
 忘れることに、平気になっていた。
 そんな自分が恐ろしく、得体が知れず、許せなかった。
「お目覚めですか」
 不意を突いて掛けられた声に、陸遜の肩が跳ね上がる。
 聞き慣れた家人の声だ。
 その筈だ。
 だが、今の陸遜には自分を絡め取り、冷たい水底へ引きずり込んでいく化け物にしか思えない。
 捕まってはいけない。
 気付かれてはいけない。
 不死の怪物を眼前にしたかのように、陸遜は身を固くして息を殺す。
 家人はしばらくその場に佇んでいたが、返事がないことで何やら覚ったのか、静かに立ち去って行った。
 気配が消えてなお時間を空け、完全に一人だと察することが出来て初めて、陸遜は体の力を抜いた。
 全身がべた付く汗に塗れ、泥でも詰め込んだかのように冷たく重い。
 ただひたすら、怖い。
 助けてほしかった。
――誰に。
 助けてくれる人などいない。
 皆が皆、陸遜とは異質だ。
 否、陸遜こそが異質なのだ。
 だからこそ、皆は陸遜を変えようと必死に諭してくる。
 そしてそれは、成功しつつあった。
 陸遜が皆を変えられずとも、陸遜は変えられてしまうことだけは、はっきりしたのだ。
 ならば、また変えようとするやもしれない。
 あるいは、始末しようとするかもしれない。
 どうすればいいのか。
 焦りが、恐怖を刺激する。
 ぐっと握りしめた手のひらに在るのは、携帯だった。
 しかし、掛けても出る相手はいない。
 これをくれた人は、捕まってしまった。
 携帯自体も、崖底に落ちて使い物にならなくなっていることだろう。
 孤独を立証するだけの代物だった。
 掛ける相手など、いない。
 犀花以外にはいない。
――いない?
 はっとする。
 陸遜は携帯を握り直すと、震える指を制してゆっくりとボタンを押す。
 ぷつぷつという不思議な音が続き、甲高い音が響いた。
 良かった、と、安堵の涙が滲む。
 これで助かった。
 確信があった。
 高い音が途切れる。
『………………もしもし?』
 懐かしい声が聞こえた。


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