「完殿!」
陸遜は叫んでいた。
「完殿、私です、陸伯言です!」
返事がない。
「完殿……完殿!? 私です! お分かりになりませんか!?」
焦りが矢継ぎ早に言葉を重ねさせる。
やっと見付けた命綱が、手の中で淡く溶けて消えていくような恐怖が沸き立ち、陸遜を襲っていた。
「完殿!」
『うるさい!!』
怒鳴られ、口を噤む。
『声がでかい、耳が痛い、黙れ、とりあえず落ち着け』
流れるような説教を受け、陸遜は身を縮込めた。
怒りは感じないが、ぴしりと鞭打つように吐き捨てる言い方が、ひどく懐かしくてほっとした。
「……申し訳ありません」
深呼吸して謝罪すると、携帯の向こうから溜息が聞こえた。
『どうした』
簡潔な問い掛けに、陸遜は姿勢を正した。
それだけで頭の中の靄が晴れるような気がする。
「実は……」
これまでの流れを簡略に話す。
かなり時間が経っているような、いないような、浮付いた感覚が徐々に取り除かれ、ずっと眠っていたのがようやく目が覚めたような、そんな心持がした。
端折れるだけ端折った話を、完は相槌一つ打つことなく、黙ったまま聞いていた。
「……という次第です」
話の終わりを告げるも、返事がない。
考えをまとめているのかと、しばらく待ってはみたが、それにしても沈黙が長かった。
「あの……」
どうかしましたか、と話を促そうとした瞬間だった。
『あのさ』
完が口を開いた。
『練師って、誰』
時が止まった。
「………………は?」
たっぷり時間をとって、しかし陸遜ができたのは、間抜けな問い返しだけだった。
『いや、うん、たぶんアレだろうなーというのは分かんだ。けど、私が知ってるお前の世界に、練師はいない。つか、いなかったんだ』
だから訊いている、と完は言う。
けれど、何を言っているのか分からない。
分からないと思いつつ、陸遜の中の違和感が、一気に瓦解するのを感じた。
――練師殿、は、いったい何者なのか。
分かる。
が、分からない。
練師とは、孫尚香の御付の女官で、武芸の師で、呉を支えてきた女性だ。
その筈だ。
だが、練師はいつ、どこから、孫呉に仕えるようになった。出自がどうで、どのような経緯で、尚香に仕え武芸を教えるようになったのか。そして、どのようにして孫呉の将兵は彼女を慕い、敬い、彼女の言こそ全てとさえ思うようになったのか。
その記憶が、陸遜にはない。
呆然とした。
『陸遜』
ぴしり、と名を呼ばれる。
「……はい……」
覚束ない思考に困惑しながら、陸遜はなんとか返事をする。
『犀花のことは、諦めろ』
「な」
思いも寄らぬことだった。
「嫌です! それだけは、それだけは嫌です!!」
『何で』
被せるように問われ、言葉を失う。
何で、と言われれば、どうしてなのだ。
どうして自分は、犀花を諦めるのが嫌なのだ。
一度は、諦めることが出来た人だ。
諦めたことに気付いても、ほろ苦い感傷と共に見送ることが出来た人だ。
なぜ、今更諦められないのか。
――陸遜。
声がする。
――この坂、降りれる?
不安そうで、それでいて少しはにかんだ笑みを浮かべて、泣きそうな目で自分を見上げていた。
自分を突き飛ばした瞬間、目もくれずに敵方へ駆け出し、消えていった背中を思い出す。
「悔しい、からです」
完全には一致しないが、それが一番、近いような気がする。
「あの方は」
崖から落下した瞬間の、喉元を抉り取られたような消失感が、生々しく蘇る。
――ああ、そうだ。
陸遜は、確信した。
「私のものです」
『そうか』
高慢な決意を、完は否定をしなかった。
『なら、呉を捨てろ』
どころか、流される。
当たり前のことを当たり前だと言うように告げられた。
そして、陸遜もそれを当たり前だと思った。
「はい」
他人事だからか、けれどもいっそ清々しい。
「そうします」
携帯の向こうから、微かな笑い声が聞こえたような気がした。
『お前は、私の知っている『呉の連中』のままで良かった』
これには首を傾げた。
どういう意味なのか。
『強くて、したたかで、自分勝手で恐れ知らずで、とにかく厄介な連中だってことだよ』
「はあ」
褒めているのか、いないのか。
どことなく敵側の評価に聞こえる。
そう言えば、完が好きなのは馬岱だった。であれば、完もまた蜀の臣と見るべきか。
ならば、こちらの世界に来てくれなくて良かったと思う。
陸遜以上に陸遜を、あるいは呉を知っている厄介な相手を、敵にしたいとは思わない。
『陸遜』
完の話が続く。
『一つ、いいことを教えてやる』
首を傾げる。
こんな勿体ぶった言い方をするのは、完らしくない気がした。
『この通話は、本当なら通じない』
「は?」
意味が分からない。
『携帯っていうのは、携帯だけじゃ繋がるもんじゃない。お前の知らない別のからくりが必要になる』
「は」
では、なぜ、この通話が実現したのか。
予想に過ぎないと用心深く前置きした上で、完はある仮説を告げる。
『犀花が関わってるから、かもしれない』
そして、であるならば、と続く。
『犀花を手に入れることで、中原の覇者になれる可能性がある』
陸遜の目が見開かれる。
中原の覇者。
その言葉がどれほどこの天下に在る者の胸を躍らせるか、完は知っていて口にしたのだろうか。
『犀花に対する孫呉の将のこだわり方が、正直異常な気がしてた』
もしそれが、勝利に固執する者の嗅覚がなせる業なのだとすれば、説明がつく。
『どうか?』
話が締められ、やっと気が付いた。
完は、陸遜に交渉の材料を与えてくれているのだ。
「ありがとうございます」
捨てろと言いつつ、交渉材料をくれるあたり、完の複雑な心境を示しているのかもしれない。
有り難かった。
『役に立つ情報かは、分かんないけどなー。殺した方が早いって考え方もあるし』
絶句しそうになる。
『まあ、でも、先々考えればゲットできた方がいいアイテムではあるからな。手に入れられれば、入れとくに越したこたぁない。特に、お前のとこみたいのは』
後は、陸遜次第だと言い残し、完は自分から通話を切った。
突き放されたようにも感じる。
「いや」
呟き、陸遜は自ら否定した。
だったら、未練がましく付け足す必要はない。
あれは、完なりに犀花を案じ、助けてほしいと懇願する気持ちの表れだろう。
だが、そうするには大なり小なりの危険が生じる。
陸遜にそれをやれとは言えず、言葉を濁したのだろう。
――犀花も、犀花に纏わる人間も、まったく。
自分も語尾を濁していることに気付いて、陸遜は苦笑した。
窓を開ける。
丁度日が昇ろうとしている。
稜線に金の線が刷かれ、徐々に太く眩くなり、そして不意に消えた。
美しい光景だ。
初めてそう思った。
「誰か」
夜着を脱ぎ捨て、身支度を始める。
揺るぎない決意が、胸にあった。
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