小一時間ほど掛けて来た道を降りる。
険しい山道とばかり思っていたが、降りてしまうと平坦な道が続いていた。
逃げていた時は、敢えて身を隠せる高低差のきつい道を進んで来たのだろう。
陸遜は、無事に逃げ果せただろうか。
「おい!」
振り返ろうとした犀花を、後ろに着いていた兵士が突き飛ばしてくる。
向こうは小突いただけのつもりだろうが、この世界では犀花の体など木っ端も同然だ。
押されたところに澱んだ熱が孕む。
先程蹴られたところにも、ずっと違和感があった。
明日には興味深い色彩の痣が出来ているに違いない。
不意に、視界を塞いでいた兵士の壁が割れる。
その先に馬が二頭、轡を取られて待機していた。
司馬懿と男が、それぞれ馬番から轡を受け取っている。
「おい」
男が腕を伸ばしてくる。
犀花が目をぱちくりさせている間に、男は馬の背に犀花を積み込み終えていた。
「何だ」
「あ、いや……乗せてもらえると、思わなかったんで」
乗せてもらえる、という言葉に相応しい状態かどうかはかなり微妙だが、歩かずに済むのは正直助かる。
半日程度とはいえ、追手の気配に気を張り続けての移動は、犀花の気力も体力も奪っていた。
「……この調子では、いつ合肥城に着けるか分からん」
日は傾き、すぐに暗くなるのは目に見えていた。
幾ら平坦でも、道があって舗装されている訳では無論ない。
そんな場所を、灯り一つなく移動するのは兵であろうと極めて困難だ。
理詰めで考えれば当然の帰結で、犀花に同情してのことではないのだろうが、それでも有難い。
男は、身軽く馬の背に跨る。
半ば男の膝に抱えられる形になった。
無性に申し訳ない気になって、男の顔を見上げようとしてみたが、後ろ手に縛られ芋虫のように転がされているとあっては、叶わぬ希望だ。
「……すみません」
顔を合わせぬままに呟くも、男の応えはない。
聞こえているとは思うが、男に返事をする義務はないし、必要を感じないとなれば致し方なかろう。
そうしてすぐ、犀花は頭を下げたことを後悔する。
横抱きに積まれたことで、馬が駆ける振動がもろに胃に響いてしまう。
結果、犀花は馬に乗って乗り物酔いを起こすという羽目に陥った。
また小一時間ほど経って、犀花が限界を感じた頃、馬はゆっくりと速度を落とした。
「…………?」
無理やり顔を上げると、犀花の目の前には絶壁がそびえ立っている。
道を間違えたのかと思いきや、岩壁が割れ、人が現れた。
違った。
よくよく目を凝らせば、絶壁と思ったのは城壁であり、岩壁が割れたと思ったのは跳ね橋が降りただけだった。
三人の男が前に出てくる。
鎧や装束のこしらえから見て、三人とも将なのだろう。
そこで、犀花は違和感を覚えた。
合肥とくれば、言わずと知れた張遼、楽進、李典の三人の将が思い浮かぶ。
それはいい。
だが、張遼はさておき、楽進と李典は準武将だった筈だ。
その割に、鎧装束が派手過ぎる気がする。
蜀でも呉でも、準武将に当たる将達はある程度おとなしめ、言ってしまえば似たり寄ったりの格好をしていた。
あの馬岱にしても同じことで、顔立ちこそ端正であったものの、いわゆる醤油顔という奴で派手な顔立ちでは決してない。
ところが、今犀花の前に立つ楽進と李典と思しき二人の男は、目は二重だわ睫毛は長めだわの、総評すれば間違いなく濃い顔のイケメンだわ、身長は低いのと高いのとでずいぶん差があるわで、鎧を置いてもやたらとキャラが立っている。
何かが変だった。
「ご無事で、曹丕殿」
見覚えのある八の字髭が、犀花を乗せた馬の男に拱手の礼を取る。
司馬懿の態度からして薄々そうだろうかと考えてはいたが、この男はやはり曹丕だったようだ。
ただ、犀花の知る曹丕は、強い髪を無造作に一つ結びにしていた。
ここまで外見が変わった将に、犀花は今まで出会ったことがない。
実際に対峙する際に、そうと分かるまで時間が掛かることはある。
けれどそれは、相手が偽称する等の不正を働くからであって、名を告げられれば納得しなかったことがない。
事実、司馬懿のことは何となくでも司馬懿と分かった。
今までに倣わない将の出現、今までに倣わない外見の変化という異変に、犀花は初めて遭遇したことになる。
本当の『ゲーム』であれば、これは明らかに何らかの『フラグ』となろう。
問題は、そのフラグが何のフラグであるか、だ。
犀花は、密かに身震いした。
己の天でない世界において、犀花が呑気に平静を保っていられたのは、この世界を『知っている』というこの上ない安心感があったからだ。
知っているということは、強い。
孫子でさえ、彼を知り己を知れば百戦殆からずと言っている。
知らないということは怖いのだ。
「どうした」
頭の上から、声がする。
「虚勢を張るのはやめたか」
見抜かれていたらしい。
不思議なもので、見透かされていると分かると腹が立つ。
怒気が恐怖に勝り、挫かれた気勢が戻ってきた。
「……曹丕殿、その女は?」
くせ毛の色白長身が、片眉を顰めて犀花の顔を覗き込んでくる。
寵姫や愛妾でないのは、後ろ手に縛られた有様で一目瞭然だろう。
にも関わらず、曹丕自らが馬に乗せているとくれば、犀花の存在は確かに不可解だ。
「父が欲していた、珍鳥だ」
「ああ……」
初耳の呼称には、どこか馬鹿にされている色が濃い。
何を、と思わず顔を上げるも、目が合ったのは八の字髭の方だった。
勢い余ったばつの悪さに、仕方なくどうも、と頭を下げる。
面食らわれた。
まあ、そうだ。
仮にも官に名を連ねる者が、敵国の将に気安く挨拶するものではない。
相手が名のある将であればある程、恐れ怯み竦むのが当然だろう。
けれども、見覚えのある八の字髭は、張遼以外に考えられない。
犀花にとって張遼は、泣く子も黙る遼来々ではなく、あくまで無双の『ヤマダ』なのである。
戦場で強化されて発光している張遼ならばまだしも、日常の控えめな張遼などお会いできて嬉しい限りだ。
我ながら良くない反応だとは思うが、素ではビビりの自覚がある。
蜀の文官として醜態を晒さずに済むなら、些細なこと等どうでもいい。
と、小柄な将が前に進み出た。
犀花の視界がぐるりと回る。
「おい、楽進……何もあんたが……」
犀花の視界の外で、何やら無言の遣り取りがあったらしい。
肩に担がれた犀花は、小柄な将もとい楽進の向く方と真逆に振り回される。
「は、確かに、私ごときがお運びするのは差し出がましいようですが……」
「そうじゃない、そうじゃなくてだな」
くせ毛が頭を掻きむしる。
ならば、こちらが李典になるか。
見上げる形の李典の顔は、何故だか無性に腹立たしげだ。
最初は悠揚とした気取り屋然に感じていたが、案外神経質なのかもしれない。
頭にふっと、凌統の顔が浮かぶ。
似ているのだろうか。
しかし、次いで思い出したのは出会った当初、口の端を曲げ嫌味を吐いたあの凌統の姿だった。
今や兄とも呼び慕う相手だが、あの時の胸を穿つような痛みを犀花は忘れていなかったようだ。
犀花の眉間に皺が寄る。
李典の眉間にも、皺が出来た。
別に、李典に対して悪感情がある訳ではない。
悪いことをしたかと慌てると、何故か李典も狼狽して視線を揺らす。
少しばかり面倒臭そうな性格だということだけは、察しが付いた。
とりあえず、現在その神経に障っているのだろう状況を変えるべく、挑戦してみることにした。
「自分で歩けます」
言ってみただけのつもりが、楽進は意外に素直に下してくれる。
が、途端にふらついた。
馬に揺られていたのが、思いの外効いてしまっているらしい。
大きく揺れた犀花に驚いてか、楽進が慌てて抱き留める。
「……あ!」
非礼と気付いてか飛びのいた楽進に押され、犀花は結局その場に転がる羽目となる。
「ああ!」
悲鳴が上がる。
犀花ではなく、楽進が上げたものだ。
「申し訳ありません! 申し訳ありません!」
必死に謝られるのだが、手を貸してくれる気配は微塵もない。
後ろ手に縛られているせいで起き上がるのに手間取っているのだが、失態を繰り返すまいとしてか犀花の傍をうろうろ反復横跳びするばかりだ。
馬鹿な子なんだろうか、と、つい無礼なことを考えてしまう。
もたもたしている間に、張遼が起こしてくれた。
「有難うございます」
頭を下げると、張遼は複雑そうな顔を見せる。
戦場で武を奮うのとは違い、得体の知れない女相手にどう振る舞えばいいのか分からないのかもしれない。
「……おーお、噂通り、人を誑かすのがお得意らしいな」
棘のある言葉、声音だ。
発したのは李典だった。
張遼の眉が、わずかに上がる。
嫌味を言われたのは犀花だが、あからさまに張遼を当てこすっている。
傍から見る限り、李典が一方的に張遼を嫌っているようだ。
合肥を守る三将の仲が悪いという話は有名ではあるが、その理由まで知っている訳ではないから詳しい所は分からない。
分からないからお気楽に、犀花の口はつるりと滑る。
「うわ小っせ」
呟いた声は意外に大きく、周囲に響き渡った。
自分の置かれた状況を思い出し、青ざめるも、覆水盆に返らずだ。
動揺したのは犀花のみでなく、居合わせた将兵達も皆同じだった。
嫌な空気が流れる。
自らは動けず、誰か何とかしてくれないかという他人任せな視線が交錯した。
「何をしている」
空気を読まない一言が、場の緊縛を打ち砕いた。
曹丕だ。
さすがだなぁと、要らぬ感心をしてしまう。
曹丕の一言に力を得たか、司馬懿が突然喚き散らした。
「えぇい、貴様ら、油断のし過ぎも大概にしろ! 門を開け放しにして、今、敵の襲撃があったらどうするつもりだ!」
動け、進め、さっさとしろとまくし立て、いささか気の抜けていた風な新兵達は慌てて跳ね橋に殺到した。
犀花も引き立てられ、その背を押し出される。
顔を横に向け、こっそりと張遼に向け黙礼を送る。
小さく頷いたのがわずかに見えた。
それにしても、緊張感がない。
敵に捕まったというのに、もう少し危機感を覚えるとかしないと、と、胡乱な反省をしてみた。
跳ね橋を渡り、城壁の通路に踏み入る。
足元も覚束ない暗さが、犀花の不安を呼び戻そうとしていた。
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