意識が戻る瞬間に、目が開いていた。
視界に映ったのは、染めたように四角くくり抜かれた影だった。
四角の縁を追うと、窓枠に辿り着く。
窓の前には、竹簡を広げて座る人影があった。
空恐ろしくなる程に月光が似合う。
見られていることに気付いたか、人影がこちらに顔を向けた。
竹簡を置き、傍らに歩いてくる。
手が伸びてきた。
冷たい。
額から頬へと落ちる指先の動きにつられ、瞼が閉じていく。
同時に、意識が途切れる。
暗闇に落ちる恐怖はなく、生成りの柔らかな布に包み込まれるような安らかさがあった。
再び目が覚めると、天井の四角が消えていた。
窓は既に閉ざされており、人気もない。
夢でも見ていたような気になりかけたが、網膜に焼き付いた残影が強く否定する。
ただ、肌に残った優し気な手の感触が、犀花を酷く惑わせていた。
辺りを見回そうとして、首根に痛みを覚える。
寝過ぎた後の倦怠感もあり、訳の分からぬ焦燥が沸き上がった。
尋ねようにも、人の気配がない。
起き上がって探し出そうとも思うのだが、起き上がるのも困難な有様だ。
どうしよう。
一度目を閉じると、瞼が開かない。
糸で綴じ付けられたような気さえして、焦るは焦るのだが、とにかく体が言うことを聞いてくれない。
しばらく無駄な抵抗を続けてみたが、結局何にもならない。
諦めて力を抜いた。
理由が今一つはっきりしないが、犀花はおそらく、滅茶苦茶ハイになっているのに滅茶苦茶疲労困憊に陥っている状態なのだ。
――あれだな、修羅場中のテンションに似てるんだな。
気力が勝れば原稿が進むが、疲労感が勝れば体は重く時は全力疾走で過ぎ去る。
今は、後者の状況を悪化させた感が強い。気力は充実して冴える一方なのに、体が使えないので無駄というにも程がある。
幽体分離できれば見聞きするには楽そうだが、手足がなければやはり何もできまい。
そも、やろうと思って出来ることではないから、正に『下手の考え休むに似たり』を体現している。
目を閉じたまま、気配に耳を澄ませた。
昼独特のほのかな熱を感じるが、物音は聞こえない。
静かだ。体は依然、動かない。
――っていうか、何でこんなことになったんだっけ?
体に触れる寝台の感触、また、ぼやけた視界ではあったが見覚えない天井の様から、今いるのは宛がわれていた室ではないようだった。
何で、室を変わることになったのか。
だいたい、どうやってここに移動したのか。
最後に自分の室にいた時のことを思い出そうとして、鋭い衝撃が走る。
「あ」
心臓がびくびくと痙攣している。
首筋に走った冷たい感触が、鮮明に蘇った。
――首、切られた。
全身にぞわぞわとした恐怖が刷かれていく。
――し、死……死んだ……?……私、死んだ?
開かない瞼の縁に、涙が染みた。
しかし、動揺は空恐ろしい時間を消費しつつもやがて静まっていく。
死んでいる訳がない。
死んだ人間は、自分が死んだと嘆かないだろう。
否、幽霊になっているのなら、それもアリだろうか?
自分が死んだことに気が付かない幽霊の話は、珍しいものでもない。
だが、体が動かないと困惑する幽霊はどうだろうか。
――うん。
こんなあほなことを考える幽霊は、早々いないだろう。
大丈夫だ、と思うと、心底気が抜けた。
寝よう、と思った。
現況は定かでなくとも、とりあえずの無事は知れた。
傷も、出血こそ多かった気がするが、見た目よりずっと軽かったのだろう。
転んだ拍子にできた傷など、早々致命傷にはなり得まい。
体が動かないのも、あの騒動で心身ともに疲れ果てた為だろうと想像がつく。
ならば、今とるべきは睡眠だ。
寝て、体力を回復させて、色々思い悩むのはそれからにしよう。
決めてしまうと、気持ちも楽になった。
ふわりと浮かぶような、逆に沈み込むような感覚で、眠りの淵に落ちていくのが分かる。
赤かった瞼の裏が、どんどんと暗く色味を無くしていくのを眺めていた。
かたん。
小さな物音だった。
が、眠りかけた意識はいとも容易に呼び戻される。
覚醒には至らず、けれども落ちることもない中途半端さで、誰かが近付いてくるのをただ待ち受ける
のみだ。
不思議と怖くなかった。
故に、司馬懿か楽進あたりかと見当を付ける。
恐怖を感じないのは、知らない気配ではないからだ。
敵地にあって、犀花が知っている人物は少なく、松柏でないのは何となく分かった。
先の二人は、態度こそ真逆であるが、顔見せの回数だけは何故か似たり寄ったりなのだ。
気配が寝台の横に立つのを感じ、やはりそうかと納得しかける。
が、気配は更に接近してきた。
怪我をしたから具合を見ているのかと思いきや、気配は止まることなくどんどんと近付いてくる。
これは、もしかしなくても完全に覆い被さっている状態なのではないだろうか。
すると、このままでは、何というかまずい……のでは、ないだろう、か?
焦燥は増すものの、瞼は開かず体も動かない。
犀花に意識があるなど、相手は微塵も思っていないのだろう。
どうしたら、と混乱するも、どうしようもない。
自意識過剰なだけ、顔を覗き込んでいるだけと自分を諫めてみるが、淡い期待に反して気配はただただ近くなる。
微かな吐息が触れた。
様子を見るだけで、ここまで接近はすまい。
疑問が確信に変わる。
――この人、まさか皮膚接触!?
内心混乱を極めるが、体は動かず、当然声も出ない。
吐息どころか体温を感じる。
触れる。
覚悟を決めた瞬間、張り詰めた声が響き渡った。
「曹丕様!?」
弾かれるように瞼が開く。
間近にある曹丕とがっつり目が合った。
顔が一気に熱くなる。
曹丕の方は顔色一つ変えずに犀花の視線を受け止め、あっさり身を離した。
踵を返した曹丕の動きに合わせ、風が湧き上がる。
その冷たさが、無性に目に染みた。
曹丕は、狼狽えるばかりの司馬懿を連れ、そのまま室の外へと去っていく。
取り残された安堵感は、心臓の爆音を引き立たせる。
どういうことなのだろうか。
劣情とか慕情とかでしたこととは、到底思えない。
付き合わせた眼には、そんなべたついたものは微塵も感じられなかった。
あんな冷たい目で恋愛するとしたら、ある種の変態に違いないと断言する。
では、何をしていたのか。
頭を抱えながらも思考をまとめている時、視界の端に人影が映った。
自分で顔を上げるより早く、顎を取られて上向かされる。
触れた感触は、それまでの容赦ない動作とは真逆に優しかった。
空白の間が生まれる。
そんな犀花をよそに、曹丕は背を向け、悠然と去っていった。
――え、ちょ、ま。
何が起こったのか理解できず……否、理解したくなく、犀花は一人悶々と思い悩むのだった。
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