どこに連れて行かれるのかと思っていたが、通されたのは広間だった。
拷問でもされるのかと不安になっていた犀花だったが、とりあえずはその可能性がないと分かって安堵する。
痛いのは嫌いだ。
誰でもそうだろうが、拷問とは縁遠い身の上のせいか、実際そういう状況に陥ると動揺が半端ない。
曹丕は、案内無しに中央の席に進み、当然のようにそこに座る。
拷問とまではいかずとも、尋問されるのだろうか。
それにしては小奇麗な部屋だった。
尋問には尋問に似つかわしい場所というものがあるだろう。
先程出会った三将が着いて来ているのもよく分からない。
犀花の疑問は、すぐに解明された。
「歌え」
傲慢な物言いだが、不思議と腹が立つことはなかった。
曹丕という人となりに、あまりに相応しかったからかもしれない。
黙り込んでいるのを何やら察したか、司馬懿が補足してくる。
「贋者を連れ帰る訳にはいかんのでな」
見当違いだ。
犀花は別に、歌手でも何でもない。歌うのは嫌いでないというだけで、歌えと言われて即座に応じる義理も度胸もない。見ず知らずの人を前にしてであれば、尚更だ。
だから躊躇するのであって、他意はない。
贋者だから歌えない訳でも、歌うものかと意地になっている訳でもないのだ。
しかし、どう説明したものか。
躊躇う犀花をよそに、見当違いの思惑は突き進む。
「さては、俺達に聞かせる歌はない……ってところか?」
李典が嘯いた。
――うわ小っせ。
今度は声に出さずに済んだ。
先程、小さいと言われたことを根に持たれての発言だろうから、言わずに済んだのは勿怪の幸いである。
犀花が密かに窺っていると、視線に気付いたらしい李典が鼻で笑う。
絵に描いたような嘲笑に、萎れていた犀花の反抗心が火を噴いた。
「……何でもいいんですか」
低い声音に、何故か司馬懿が狼狽える。
「う、うむ。何でもいいから、早く歌え」
取り繕うように上から目線をかましてくる司馬懿に、犀花は内心ほくそ笑んだ。
――言ったな。
呼吸を整え、口を開く。
次の瞬間、居並ぶ将は一様に目を見開いた。
犀花が選択したのは、『聞いただけでは歌詞がまったく分からない』という早口・まくし立てで名高い歌だった。
この世界でこんな歌を聞いたことがあろう筈もなく、将ならずとも動揺して然るべしだ。
しかし、一番を歌い切ったところで犀花は口を閉ざす。
顔色一つ変えず、極々真面目な顔で耳を傾けている曹丕の姿に気付いたからだ。
「……終わりか」
沈黙した犀花に、確認という名の追撃が入る。
答える前に司馬懿が横から口出ししてきた。
「貴様っ! 我々を侮るにも程が……」
怒りのままに怒鳴りつけられ、犀花も思わず首を竦める。
が。
「司馬懿」
これまで以上に冷ややかな声だった。
前のめりに犀花の方へ進み出ようとしていた司馬懿が、その場で固まる。
曹丕の目は、幾らか気怠げにも見えるのに、その色はぞっとする程冷たい。
司馬懿に向けられていた目が、犀花へと流れる。
訳もなく肩が跳ね上がった。
威圧による恐怖のせいだと、この時は未だ分からなかった。
「今一度だ」
「へ」
言われた意味が分からず、首を傾げる。
「……え、今の歌を……?」
わざわざ二回も聞きたそうには見えないが、曹丕の感性に触れる何かがあったのだろうか。
それはそれで、何か嫌だ。
ともあれ、歌えと言われれば仕方がない。
渋々ながら、犀花はもう一度同じ歌を歌った。
1番を歌い切って、口を閉じる。
すぐさま曹丕が命じてくる。
「今一度」
イジメか。
半泣きになりそうだったが、辛うじて堪える。
こんなことで泣いては、蜀の、ひいては諸葛亮の面子に関わる。
歌い終えると、曹丕が静かに目を開けた。
「……一音二音、違っていたようだが……」
ぞっとした。
耳慣れている筈の現代人でさえ『聞き取れない』と揶揄する歌を、たった三回、しかも犀花がアカペラで歌った歌を聞き分けたと知れたからだ。
「我々を謀っている訳ではないようだ」
曹丕は立ち上がると、一同に背を向ける。
「司馬懿、後は任せたぞ」
振り返ることもなく言い捨てると、そのまま部屋を出て行った。
張遼が一礼し、後を追う。
後に残されたのは、仏頂面を晒した司馬懿と李典、不思議そうに犀花を見詰める楽進である。
重い空気が場を包むが、犀花に介入の権利などない。
ひたすら指示を待っていると、最初に動いたのは李典だった。
と言っても、本当に動いただけだ。
後ろ手に開いた手をひらつかせ、退室していく。
案の定、司馬懿のこめかみがひくついているが、楽進が気にした様子はない。
気付いていないのかもしれない。
合肥の三人がどうして仲が悪いのか、分かったような気がするが、そこに司馬懿が加わっても悪化するばかりで何も変わらないというのはなかなかに衝撃だ。
「……えっと」
どうしたものかと小声で呟くと、楽進が一歩進み出た。
「来い」
司馬懿が手招く。
無論、楽進でなく、犀花に対しての指示だ。
何か言いたげな楽進を一瞥し、司馬懿は部屋の外へ向かう。
その後を追いながら一礼した犀花に、楽進は拱手の礼を向けた。
大丈夫なのかそれ、と案じていると、きつい視線が突き刺さる。
司馬懿がこちらを睨んでいた。
犀花が悪い訳ではないが、司馬懿の反応も自然ではある。
拱手は、敬礼と同義だ。
それを、敵国の、しかも諸葛亮に連なる立場にある犀花にされては、司馬懿としては面白くないに違いない。魏将の振舞いとしては、いささか軽率だろう。
楽進という人は、どうも無意識に人の神経を逆撫でするらしい。
エライ所に落ちてしまったと、犀花は改めて感じていた。
「入れ」
司馬懿に案内されて着いたのは、暗い土牢だった。
湿った土の匂いとむっとする蒸し暑さが、居住性を物語る。
拘束が外される。
逃げられないと踏んだのだろう。
事実、犀花には逃げる気力も体力も残されてはいなかった。
「どうした。怖気付いたか?」
にやり、と独特の笑みを見せた司馬懿を繁々と見詰めた後、黙って格子の内に入った。
司馬懿の顔が引き攣ったのを横目で見ながら、牢の真ん中に座り込む。
泣き喚けば、もう少しましな場所に移されたのかもしれない。
犀花の醜態は司馬懿を満足させるに足り、そして何故満足するかと言えば、諸葛亮の面目が潰せるからだ。
馬鹿にするな、と思う。
犀花を舐めているからこそ、そんな手を使うのだ。
痛いのは嫌だ。
苦しいのも、きついのも嫌だ。
けれど、この程度も耐えられないと思われるのは癪だった。
正座して土にめり込む膝下から、じわじわと湿っていくのが分かる。
どうしようもなく不快だが、耐えて耐えられない程度ではない。
眠れないかもしれないが、それはそれだ。
背を向けたまま黙している犀花の耳に、小さく舌打ちした音が届く。
衣擦れと共に足音が遠ざかった。
司馬懿が去ると、辺りはしんと静まり返る。
蝋燭の芯が焦げる音さえ聞こえた。
膝下は、土の湿り気を吸って既にじっとり濡れている。
揺らめく灯りが犀花の影を奇妙に躍らせ、牢の壁の凹凸に歪んで見たこともない形を生み出していた。
不気味だ。
自分自身の形まで歪められそうだった。
そんな馬鹿な、とは思う。
馬鹿なことを考えていると分かっているのに、どうしてもその考えが振り切れない。
取り憑かれてしまったのだろうか。
――馬鹿か。
額の汗を拭う。
袖が濡れる程の汗を、いつの間にか掻いていた。
暑いのに、寒気がする。
叫び出したくなるのを堪えるのが、やっとだった。
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