がく、と頭が揺れて、犀花は目を覚ました。
 寝ていたらしい。
 あれだけ怖がっていたのにも関わらず、いつの間にか眠り込んでいたのだ。
 疲労のせいも勿論あろうが、神経が細いのか太いのか、自分でもよく分からなくなる。
 辺りは、しんと静まり返っていた。
 窓がある訳ではないから、外の様子は分からなかったが、人の気配のなさからまだ夜の内なのだろうと察しは付く。
 無意識に辺りを見回した。
 ふっと視界が揺れた。
 目の錯覚かと目を擦る。
 手の甲が離れた瞬間、またも視界が揺れた。
 原因は、次の揺らぎで分かった。
 この土牢を照らしていた蝋燭が消えたらしい。
 風のせいかと思ったが、そもそも風など吹いていない。
 第一、律儀に一本ずつ蝋燭を消していく風など、吹く筈がなかった。
 次第に、微かな足音が聞こえてくる。
 犀花のいる牢の前に、一人の兵が姿を現した。
 背中を向けている為、顔の判別はできない。
 ただ、あまり身分の高い兵士でないことだけは、その身なりから判断できた。
 蝋燭が吹き消される。
 辺りが闇に包まれた。
 何も見えない。
 自分の指先すら覚束ない程の闇は、当然のように恐怖をもたらす。
 見えない恐怖に動揺する犀花に、新たな恐怖が襲い掛かってきた。
 牢の開く音と共に、誰かが入ってくる。
 一人ではない。
 二人、否三人、否、もっと大勢かもしれない。
 目を凝らすが、やはり何も見えなかった。
 いきなり引きずり倒された。
 反射的に逃げようとするが、一斉に沸いた嘲笑に取り囲まれて、体が竦む。
 逃げ場を探して首をきょろきょろ廻らせてみるが、嘲笑が深まっただけだった。
 足を掴まれる。
 蹴り付けて逃れようとするのを、逆に殴られたか蹴られたか、打ち据えられた。
 元より、今日一日で散々小突かれ、触るだけでも痛いのに、だ。
 純然たる暴力は、犀花の心を容易く折った。
「最初から、おとなしくしてりゃいいんだよ」
 侮蔑と同時に、複数の手が犀花の装束に掛かる。
 脱がそうとしていると分かって、思わず襟元を掻き合わせた。
 頬の辺りを殴られる。
 手が緩んだところを、すかさず捩じり上げられた。
「今更、出し惜しみする程のモンじゃねぇだろうよ」
 どっと笑いが起こる。
 涙が出た。
 泣き顔など見せたくないのに、勝手に溢れる涙を止められない。
 そんな自分の弱さが、一番悔しい。
 黒い塊が覆い被さってくる。
 腕なのだろうか、闇より濃い物体が犀花の目の前で激しく交差し、ぶつかり合う拍子に犀花の体をも痛め付ける。
 髪を掴まれ、腕を捩じられ、足を引きずり回された。
 転がされる内に土に塗れ、顔も体も冷え込んでいく。
 零に近い視界がより完全な零に近付いて、恐怖に強張り声も出ない。
 据えた匂いが、犀花の皮膚に染み着いていく。
 気持ちが悪い。
 何より、臭かった。
 土牢の濁った空気も酷いものだったが、汗と体臭に汚物が混じって腐ったような男達の匂いは、それを遥かに凌駕した。
 熱くわだかまるものが込み上げ、喉奥から解放を求めて暴れ出すのを必死に耐える。
 全身は総毛立ち、くまなく鳥肌が覆った。
 快楽とは程遠い。
 これまで誰と肌を合わせても、こんなおぞましい思いをしたことがない。
 指が触れる度、荒い息が吐き出される度、悪寒と怖気に襲われた。
 吐き気を堪える犀花の口元に、更に饐えた匂いのするものが押し当てられる。
 もう、耐えられなかった。
 一気に吐き出す。
 喉が楽になった。
 それ以上に、やってやったという達成感に密かな自己満足を覚える。
 が、代償は凄まじい。
「……このっ!!」
 下卑た笑いの中から、鋭い怒声が響く。
 犀花の吐瀉物をもろに浴びたかしたようで、怒り狂っているのが見えずとも分かる。
 がん、と固い物が叩き付けられる音がして、犀花の体は吹っ飛んだ。
 追撃は即座に、執拗に行われる。
 幾度も、幾度も、幾度も、冷酷な音は繰り返す。
 男の激昂を生温く見守っていた空気に、徐々に焦りの色が混じっていった。
「……お、おい」
 誰かが、擦れた声を上げた。
 抑止力など欠片もない小さな声は、しかし居合わせた全員の焦燥と危機感を駆り立てる。
「おい、やめろやめろ!」
「やめろよ、やめろって……!」
「落ち着けよ、おい、落ち着け」
 必死に男を止める声が飛び交うが、殴打の音は止まらない。
 時折、腕を押さえられたかで途切れることはあっても、より大きい音が待ち構えているだけだった。
「馬鹿、死んじまうよ!」
 恐怖に震えた叫び声が迸り、途端、場が静まり返った。
 誰も、その可能性を考えていなかったのだ。
 捕らえた女は噂に名高い『名器』と聞いていた。
 女日照りの続く男達は、土牢に閉じ込められた名器に、上層の隠れた意図を感じ取ったのである。
 多少のお零れを頂戴しても構うまい、幾らか傷が付いても問題ないと、他愛ない悪戯のつもりで手を伸ばしただけの話だ。
 死ぬなんて、想定していない。
 だから、死ぬ筈がなかった。
 男達の内の一人が、恐る恐る倒れ伏した犀花に近付く。
 爪先で、ちょいと小突いても、犀花は動かなかった。
「……はは、こいつ、動かないぞ……」
 軽口を叩く。
 あくまで、犀花が動かない振りをしていると囃し立ててもらうつもりで吐いた言葉だ。
 誰も反応しないのは、男にとって予想外である。
 強張った笑顔のままで、今度は幾分力を籠めて蹴り付ける。
 あっ、と悲鳴のような声がそこかしこから漏れた。
 最早笑みを取り繕えなくなった男が、足の甲を滑り込ませて犀花の体を引っ繰り返す。
 何の抵抗もなく転がった体は、腕の反動で一度跳ね、止まった。
 薄く開いた目も指先も、泥が入り込んだ口元とても、微かに動く気配もない。
 犀花だけではない。
 誰も動かなかった。喋らなかった。
 唯一違うのは、彼らの眼が異様にぎらぎらとしている点だ。
 追い詰められた者達は、鏡を覗き込むように互いの目を見詰め合う。
 黙っているだけで、やはり皆が皆、同じことを考えていた。
 問題は、誰がそれを言い出すか、それだけのことだった。

 天には月が輝き、隅々を照らしている。
 大きいなぁ、と思った。
 月は、こんなにも大きなものだったろうか。
 星は見えない。
 月の光で掻き消されているのかもしれない。
 そう言えば、と思い出した言い伝えがある。
 月は、冥界への入口なのだそうだ。
 だからか。
 月が大きいのではなく、自分が月に近付いているのか。
 掘り起こしたばかりの、土の湿った匂いが鼻につく。
 ざっざっという単調な音が耳障りだ。
 眼前に広がる月を、斜めに影が横切った。
 それは、視界を覆い月を汚す。
 何て無粋なのだろう。
 そこで、犀花の意識は消えた。


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