空白を見ていた。
何もない。
故の『空白』だ。
これはいったい何なのだろうかと、犀花はいつも考える。
夢を見る時、時々現れる世界だった。
夢を見ているのに、白一色の世界を見つめているというのが、何とも不条理だ。
思うに、夢というものは記憶の合成物なのだ。
まったく見たことがない光景であろうと、体験したことのない出来事であろうと、それらは視界を通して得た記憶の蓄積から作られたものに違いない。
では、この空白は何なのだろう。
何もない。
そんな場所は、体験は、犀花には記憶がない。
と、足元に薄らとした影が落ちる。
空白に疑問を覚えた自分が、影という形で『地面』を生んだのだろう。
白い世界に、霧が流れる。
空白の原因を、濃霧と定めた結果だ。
霧が流れれば、世界が現れる。
すべてが白に染まっただけの、白い空と丘陵が連なる世界だった。
犀花の意識が干渉したせいだろう。
意識が干渉する余地があったということは、そろそろ目を覚ます兆候ということか。
それにしても、と犀花は考える。
あの空白は、いったい何なのだろうか。
不意に、視界が切り替わった。
真っ白いキャンバスに、横合いから写真をねじ込ませたかのような、強引な変化だった。
何事かと目が丸くなる。
「あ」
聞き慣れない声に、顔を向ける。
向けられなかった。
体が動かない。
冷や水を浴びせ掛けられたような恐怖に襲われた。
何故、どうしてと遮二無二暴れる。
耳元に、きしきしと小さな軋みが届いた。
「おい、おい、動いたら駄目だ、動くな」
見知らぬ男に、上から抑え込みに掛かる。
ぞっとする。
「や」
短い悲鳴が漏れ、途端、男が飛び退る。
その、言ってしまえば『醜態』が、わずかながら犀花を落ち着かせた。
心臓は、未だ跳ね上がり続けている。
目を向けると、胸の上に紐が巻かれているのが見えた。
縛られていた。
不思議なもので、理由が分かると緊張も解ける。
縛られている理由は分からないにせよ、体が動かない理由は明らかになったからだろう。
では、何故縛られているのだ。
どうも監禁されている態ではない。
監禁するのに、寝台と思しき台に寝かせて縛るのもおかしな話だ。
そもそも、どうしてこんなところにいるのだろう。
――たしか……。
記憶を辿る。
脳の奥に、チカッと瞬く光がある。
道路工事の時に見掛ける、赤い警告灯に似ていた。
何であんなものを、と首を傾げそうになったところで、突然何もかも思い出した。
喉の奥で、吸い込んだ息がひゅっと鳴る。
呼吸の仕方を忘れ、体を戒められたことも忘れて再び暴れる。
上から抑え付けられる。
一人ではない、が、二人か、それ以上かは分からない。
記憶が鮮明に再現されていく。
恐怖から目が開けられなくて、相手を確認することが出来ない。
鼓膜から聞こえてくるのは耳障りな雑音ばかりだ。
息苦しく、何も見えず、聞こえず、望まずに蓄積された記憶がぞんざいに再生され続ける。
それらが不意に途切れた。
意識を失ったのだ。
額に温かなものが触れる。
顔に掛かった髪を払ってくれているようだった。
たどたどしい指使いが、泣きたくなる程優しい。
瞼が異様に重く、目が開けられない。
開けたくもなかった。
もし目を開けて、この優しい指が夢だったとしたら耐えられないと思った。
大袈裟だろうとも思う。
心細くて堪らない。
知らぬ間に泣いていた。
尻すぼみに意識が途切れた。
甘い匂いが鼻につき、目が覚める。
妙に喉が渇く。
体が重く、動かせない。
擦れた呻き声が漏れる。
自分が出した声とは思えなかったくらい、遠くから聞こえた。
誰かが側に近付いてくる。
視界もぼやけていると、その時分かった。
――ホウ統殿?
そんな訳がない。
勘違いしたのは、男の顔の半分以上を覆う布のせいだと分かった。
男が何か言っている。
声は聞こえるのだが、言葉として認識できない。
頭がぼんやりしている。
体が動かないのもそのせいだろうか、と考え始めた時、拘束されていることを思い出した。
と、体に微かな痛みが走る。
痛みが、頭に張った靄を一瞬だが晴らしてくれた。
「動くな」
「骨が折れている」
成程、と動くのをやめた。
動くのをやめた犀花に安堵したのか、男は後ろを振り返り、何か指示を出し始める。
どうやら、甘い匂いは麻酔代わりのようで、体を痺れさせる効能があるようだ。
効き過ぎているらしく、減らそうとか呼べとか、そんなことを言っているのが分かった。
うとうととしていると、また誰かが覗き込んでくる。
今度は二人いた。
「……多少は落ち着いたようだな」
司馬懿だった。
何言ってんだ、と思う。
痺れて動けないのを落ち着いていると評されるのは、いささかどころでなくズレているだろう。
不満を見て取ったのか、司馬懿は鼻を鳴らす。
「まぁ、いい。貴様をそんな目に遭わせたのは、我々の失態でもあるからな」
そんな目、とは何だ。
横にいた男が慌てて司馬懿に話し掛ける。
司馬懿も、はっとした顔をして口元を抑えた。
同時に、記憶が蘇る。
ひゅ、と喉が鳴り、見えない蓋がされたかのように、いきなり呼吸が出来なくなった。
もがこうにも、体は拘束されている。
口元に濡れた布のようなものを押し付けられて、気が遠くなった。
意識が途切れた。
目が覚めた。
動こうとも思わなかった。
寝台に横たわったまま、天井を見上げる。
例の甘い匂いがしていたが、ほんのり香る程度であり、然程気にはならない。
喉が渇いた。
唇を軽く噛むと、視界に人影が割り込んでくる。
布で口元を覆った男が、『少しずつ』と言いながら唇に濡れた布を当ててきた。
湿り気程度の水分が、唇から口内へ染み込んでくる。
本当にわずかな量の水を、幾度にも分けて吸わせてもらった。
「骨が何カ所か折れている。動かさぬよう固定しているので、動かさぬように」
合間合間に、犀花の現況を教えられる。
体が弱り過ぎて、最早暴れる気力がなかった。
ようやく人心地着くと、今度は白い汁を匙に載せて口元に運ばれる。
重湯のようだった。
塩気はないが、強い甘みを感じる。
期せずして絶食したことで、味覚が鋭くなっているのかもしれない。
与えられたのはほんの数口だった。
度し難い飢えを覚えるが、空っぽの胃にいきなり掻き込むのが体に良い筈もない。
反論せずに我慢することにする。
おとなしい犀花に安堵したか、男が誰かに声を掛けているのが聞こえた。
吐き気をもよおす雑音は消えていたが、耳の穴に何か詰められているかのようで音が遠い。
気になって耳を澄ますと、足音が聞こえたような気がした。
司馬懿が顔を出す。
「……瀕死、というところか」
心情的には正にその通りで、面白くもない。
冷たい視線に何やら感じでもしたか、司馬懿が口籠る。
「……そう、貴様を襲った連中だが」
びく、と指先が跳ね上がった。
動く気力もないのに反応したのは、あの時の恐怖が成せる業だろう。
だが、犀花にとっての本当の恐怖は、ここからだった。
「全員、首を刎ねてやったわ」
得意げに胸を張る司馬懿の言葉が、犀花にはどうにも理解できなかった。
呆然と見上げてくる犀花に、司馬懿は焦ったように眉を顰める。
「どうした、貴様に成り代わり、始末をつけてやったのだぞ」
始末、と聞いて、犀花の目が大きく見開かれる。
「頼んで、ない」
「……何?」
そこからの記憶を、犀花はほとんど思い出せない。
擦れた金切り声を上げ、自由にならないはずの体を凶悪に振り回す自分を、何故か傍から見ている光景だけが残っている。
我ながら無茶だなぁと、今でも他人事のようにしか思えずにいる。
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