ただ、犀花の記憶と他の者の記憶には、多少の差異が生じている。
 李典から見れば『酷ぇ女』であり、楽進から見れば『希代の傑物』となり、司馬懿からは滅したいものとして記憶の片隅に押し込められていた。
 その実際とは、以下のようになる。

「頼んでねぇっつってんだ、馬鹿」
 ぶっきらぼうに吐き捨てた言葉が誰に向けてのものなのか、司馬懿は一瞬わからなかったらしい。
 李典を振り返って手を振って否定され、楽進を振り返って首を振って否定される。
 首を元の位置に戻し、ひたと犀花を見据える。
 見据えた先の犀花は、その視線を受けてもびくともしない。
 むしろ、進んで受け止めている風でもあった。
「馬鹿、と言ったか」
「馬鹿、つったよ馬鹿」
 否定を勧める為の言葉が、歴とした肯定で返される。もとい、強調される。
 司馬懿としては予想外だったろう。
 予想外といえば、犀花の変わりようこそ予想外だ。
 必死に虚勢を張っているのも、そのくせ些細なことで怯えているのも、手に取るように見えていた。
 それが、今や蓮っ葉を絵に描いたようなやさぐれようである。
 他人事と控えていた李典も、内心驚かされていた。
「人のせいにすんな」
 司馬懿の奥歯が、きりっと鳴る。
 犀花の指摘は、あまりにも的確に処刑の理由を言い当てていた。
 早過ぎる処刑が真実犀花の為である筈もない。
 それは偏に、軍規を乱したという許し難い所業に対する必然の罰である。
 下の者が好き勝手に動けば、大敗という最悪の結果が待つ。
 心を読む、意図を察する等という小賢しさなどいらない。
 否、あってはならない。
 だから、処刑は迅速でなければならなかった。
 理由が明白だからである。
 また、到底許されないからである。
 使い道の定まらぬ捕虜を、ましてや主君ですら名を知り得ようとしている女を、たかだか一兵士が好きにして良い筈がなかった。
 愚図愚図と時間を掛ければ、兵の心に隙が、油断が生まれる。
 命に従わなくてもいいのではないか、との迷いが生じる。
 もしそうなれば、軍は死んだも同然だ。
 大袈裟ではあるが、事実でもある。
 毅然たる軍律こそ、魏軍の誇りであった。
 司馬懿の歯が、軋み続ける。
 と、不意に音が途切れた。
「……ふん」
 司馬懿は唇を尖らせ、踵を返し室を出て行く。
 肩を怒らせ、ずんずんと足を踏み鳴らしていく様は、『私は怒っています』とこれ以上なく主張してた。
 止めるべきか見送るべきか、李典は迷う。
 止めれば絡まれるのは確実だろうし、見送れば後々我が身に災厄を招きかねない。
 どちらがマシかというよりも、どちらも嫌だという気持ちが強くて、動けなかった。
 煩悶する李典を他所に、楽進は身軽く動き出す。
 ただし、向かった先は司馬懿の方でなく、横たわる犀花の傍らだった。
 犀花の目元を、楽進の指先がそっと覆う。
 その指が離れた時、犀花の瞼は閉ざされていた。
 白目を剥いたまま気を失っていたらしい。
 動けない身で、最大の攻撃、あるいは口撃をしてのけたと言って良かろう。
 敵ながらと褒めてやる気にはならなかった。
 さて、どうするかと李典は視線を巡らせる。
 場を仕切っていた司馬懿は退場し、犀花に至っては意識がないときている。
 一度出直した方が良かろうかと、声掛けるべき相手に目を向けた。
「……楽進?」
 あまりの見苦しさに耐えかねて、情けを掛けてやったのだと思っていた。
 だから、用事が済めばすぐ離れて然るべきな楽進が、何故かその場から動かずにいる。
 性分ゆえに相手を案じているのかとも思ったが、それにしては様子がおかしい。
「おい、楽進」
 応えないことに焦れ、呼び掛ける声も乱雑になる。
 しかし、楽進は応えない。
 腹立たしくなって傍らに近付けば、犀花を見下ろす楽進の横顔を間近に見ることになった。
「………………」
 絶句する。
 かつて見たことのない、恍惚の表情がそこにあった。
「おい、楽進……」
 何故か狼狽える李典に、楽進は初めて気が付いたかのように顔を上げた。
「あぁ、李典殿」
「あぁ、じゃないだろう」
 焦る。
 どうしてかは、分からない。
「どうしちまったってんだ、まさか」
 その先を続ける気にはなれなかった。
「私が、犀花殿に?」
 当の本人に続けられてしまう。
 が、楽進は笑って否定をしてくれた。
「そんな、滅奏もない……私ごときが、おこがましいというものでしょう」
「いや、そうじゃなくて……」
 李典は頭を掻きむしる。
 焦燥の理由が、今、はっきりした。
 見る限り、楽進のそれは恋に落ちた男の目の色ではない。
 畏敬の色だ。
 敬愛する相手の為ならば平気で命を落とす――それが、楽進という男だった。
 なればこそ、色恋沙汰などより困惑する。させられる。
 曹操への畏敬の念と、この女への畏敬の念とが競り合って、もしも、万が一この女への感情が勝るようなことになったら……李典は、知らず鳥肌を立てていた。
 楽進の一途さを誰よりも知っているが故に、李典の不安は一人増していく。
 何と言うべきか、何をすれば止められるかと悩み始めた時だった。
「貴公ら、何をしている」
 李典にとって最も聞きたくない声が、まさかの救世主となった。
 この事態に、李典は舌打ちをし掛けて、さすがにそこまでの痴態を晒すに至らず、己を律して唇を噛むに留める。
「見舞いを……犀花殿の、見舞いに伺っていたところです」
 その間に、楽進が答えていた。
 見舞いといえば聞こえはいいがと、李典は胸の内で毒吐く。
 犀花の傍らに立つ二人を、張遼は窺うように微かに首を巡らせた。
 その仕草が、何とも李典の気に障る。
 張遼が何をしても……例えば、敗戦寸前で敵の親玉の首級を上げたとしても……気に障るのだろうが、李典自身は敢えて認めない。
「……眠っておられるようだ。出直されては、如何か」
「今の今まで、起きてたんだよ」
 埒もない反論だ。
 楽進が、気遣わし気に李典を見ているのが分かる。
 気を遣われる理由などないと、李典の内にある棘が鋭さを増した。
「それとも何か、あんた、俺達がここにいると不都合でもあるってのか」
 場が静まり返る。
 あまりにも下卑た難癖だ。
 言い掛かりにしても、限度を超える。
 吐き出した当人たる李典も、はっと顔色を変え、口を押さえた程だった。
 しかし、張遼は動かない。
 どころか、表情一つ、それこそ眉尻すらわずかも動かさなかった。
 やがて、ぽつりと漏らす。
「貴公がそう思うのであれば」
 言葉は、そこで途切れた。
 李典の頬に、赤みが差す。
「……あぁ、そうかい!」
 足音も荒く出て行こうとするのを、張遼が止めた。
「李典殿」
 苛立たし気に振り返った李典に、張遼はしかし目も合せない。
「お静かに。怪我人の傷に障ろう」
 ぎり、と、歯の軋む音が響いた。
 比べようもなく荒々しい足音を立て、李典は去った。
 この時点で、李典の犀花への印象は、最悪のものとなった。
 坊主憎けりゃの理屈であるから、犀花にしてみればとんだとばっちりなのだが、元より敵国の文官に好意を抱く者の方が稀有だろう。
「張遼殿も、犀花殿の見舞いですか」
 重い空気も物ともせず、楽進が問うてくる。
 楽進にとって、空気の軽い重いは、あまり重要でないのかもしれない。
「ああ……貴公らは、何ゆえに?」
 発見者たる張遼が犀花の身を案じるのに然したる理由は必要なかろうが、李典楽進という二人の将が、雁首並べて見舞う理由はない。
 張遼が疑問に思うのも、当然ではあった。
「……お聞き及びになってはおられませんか」
 楽進が、やや恥ずかしそうに俯いた。
犀花殿を害したのは、私と、李典殿の軍の者です」
 張遼の髭が、微かに動く。
 よくよく考えれば、二将が揃って見舞いに来る理由など、それぐらいしかない。
 犀花を直接害したのは李典の配下、その『遺骸』の始末を付けるのに、通行を許したのが楽進の配下だ。
 どちらも等しく死罪を被ったが、意図して犀花を害した以上、どちらがどちらでも変わりない。
 だから、その点については、楽進は全く気に留めていなかった。
 気にしているのは、ただ一点だ。
犀花殿は、私をお許し下さるでしょうか」
 小さな呟きに、張遼は何故か目を見張る。
 俯いた楽進には、その表情が見えなかった。
「……貴公らに、責が及ぶことはないと思うが……」
 胡乱な答えに、楽進は首を振る。
「将として責を問われれば、潔く従いましょう。ただ……」
 犀花は、許してくれるだろうか。
 死して声が届かなくなる前に、叶うならば犀花から直接、許しを得たかった。
「……張遼殿は、犀花殿の見舞いですか?」
 一度訊ねたことを、再び繰り返す。
 困惑しつつも張遼が頷くと、楽進も頷き返す。
犀花殿が目覚められるまで、ここにいても構わないでしょうか」
「それは……」
 張遼が決めていい事柄でなく、また了解する筋合いのことでもない。
 楽進を見遣る。
 許しを請うという割に、将に似つかわしからぬ柔らかな表情が見て取れた。
 手が、知らぬ間に己の胸元を押さえている。
 その手の下に、何かざらつくものがあった。
 初めて知る感覚に、張遼は得体の知れぬもどかしさを覚えていた。


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