目覚める前、違和感があった。
薄ら目を開ける。
見知らぬ天井と向かい合い、言いようのない衝撃に打ちのめされた。
ここは、どこだ。
目だけを動かし辺りを窺う自分の姿に気付き、記憶が急速に蘇る。
――あ。
恐怖と落胆が一瞬で巨大に膨らみ上がり、けれど同じ速度で萎んでいった。
設えられた天蓋と、胸元まで引き上げられた柔らかな布の感触に、厚遇されている事実を知る。
鼓動の乱れはなかなか収まる気配がなかったが、それでも自分が安全だということだけは、理解ができた。
足は、変わらず動かせない。
ただ、首の下まできっちり固定されていた状態は解かれていて、試しに力を入れた腕が、勢い余って跳ね上がった。
「気付いたのか」
意識が戻ったのが、ばれてしまった。
ばれたからどうだということもないのだが、何となく、状況が整理できてからばれたかったと思ってしまう。
声がした方へと顔を向ければ、司馬懿の姿が目に映る。
意識が途切れる前、醜態を晒したことをまざまざ思い出した。
犀花の記憶と実際はやや異なってくるのだが、犀花がそれを知る由はない。
司馬懿もまた、教えてやるつもりなど毛頭なく、だから、この件は永遠の秘密として葬られることになりそうだ。
ともあれ、犀花には醜態を晒したという羞恥が色濃くある。
「……その、ごめ、すみません……でした……」
犀花の謝罪に、司馬懿の目元は露骨に歪む。
気安い謝罪に腹立たしさを覚えられたかと、緊張が走った。
迂闊な調子で話し掛けてしまわないようにしなければならない。
テレビ画面に隔てられていたかつてと今は、違う。
手を伸ばせば触れられる。
司馬懿がその気にさえなれば、犀花を殺すことも容易いのだ。
現状、置かれた立ち位置的に可能性は極めて高い。
無駄に己の手を汚すだろうかと逃避的に考えてみるも、プレイ時にはアイテム欲しさに無駄な殺戮を繰り返させていたこともあり、その気にならない保証にはならなかった。
「……詫びるくらいなら、最初から己の立場を弁えよ」
低い恫喝は、正論以外の何物でもない。
声も出せず、小さく首を縦に振る。
そんな犀花を睨め付けていた司馬懿が、不意に溜息を吐く。
「死んだかと思うたわ」
話が唐突で、見えない。
首を傾げると、突然世界が大きく揺れた。
眩暈を起こしたのだと理解するのに、時間を要した。
「動くな」
司馬懿の手が、犀花の目元を覆う。
意外にも温かな手の感触に、犀花は抵抗を忘れた。
その間に、司馬懿は人を呼ぶ。
おい、と大きくない声音に応え、軽やかな足音が走り去った。
すぐさま駆け付けてきたのは、医師らしき白衣の男だった。
司馬懿と入れ替わるように犀花の傍らに立つと、手を取り、脈を測る。
犀花の目を開け、繁々と覗き込むと、後ろを振り返った。
「もう、問題ないかと。後は、骨が完全に継ぐまで、安静にさせておけばよろしいかと」
「分かった」
司馬懿が応えると、医師は静々と下がっていった。
見送り、司馬懿の傍らに控える少女に気付く。
犀花の視線を察してか、司馬懿は少女を前へと押し出した。
「これは、近くの村の娘だ。お前の世話を申し付けてある。好きに使え」
鷹揚な物言いに、少女の眼が剣呑に光った気がする。
顔立ちこそ整っているが、吊り上がった眦に気性の荒さが滲んで見えるようだ。
年頃こそ春花と同じくらいだろうが、どうも性格の方は真逆らしい。
犀花が微かに頭を下げるも、ちらっと目を向けただけで伏せられてしまった。
「名乗りくらいしたらどうだ」
司馬懿の声が苛立っている。
娘の口がへの字に曲がった。
魏の軍師相手に、と、何故か犀花の胆が冷える。
とんでもないことを仕出かしているのは犀花も同じだが、やるのと見るのとではどうにも勝手が違うらしかった。
「……松柏……です……」
如何にも言いたく無さげだ。
一村民とはいえ、敵国の捕虜に下げる頭はない、と言うことだろうか。
気軽に訊ねるような事柄とも思えず、また問い詰めるのも気が引けて、結局犀花は軽く頭を下げるだけしか出来なかった。
松柏の目が再び吊り上がる。
きちんと礼をしなかったろうかと不安になるが、下手に動かすと眩暈に襲われそうで、今の犀花にはそれがどうにも耐え難い。
また、司馬懿の存在も気に掛かる。
自分にはぞんざいだった癖にと絡まれる気がして、そうなれば松柏にも嫌味を吐かれかねない。
それでは、あまりに申し訳なかった。
後で、改めて謝ろう。
心に決めて、今は沈黙を守る。
犀花が黙ると、松柏も黙る。
喋る意義を見出せずにいるらしい司馬懿も黙っており、一種異様な緊迫感が生まれた。
誰も、何も話せない。
しんと静まり返った場に、犀花の焦りが極まった頃だった。
「ご無礼を」
短い挨拶と共に現れた張遼に、犀花はほっと安堵する。
「丁度良い。礼を言っておけ」
張遼の用も聞かぬ間に、司馬懿が切り出す。
犀花が目で窺うと、じれったそうな声で返答があった。
「貴様を助けたのは、ここな張将軍だ。礼の一つも言えぬのか、馬鹿め」
知らないことに頭を下げろとは無体だが、犀花は慌てて頭を下げ、眩暈に襲われ呻き声を漏らす。
「無理は、なされぬように。楽になさるがよろしかろう」
重ねて手で促され、犀花は小声で詫びつつ楽な姿勢を取る。
張遼の視線が注がれていることに気付き、知らず頬が赤くなった。
「して、用件は」
司馬懿が切り出し、張遼の視線が逸れる。
「軍師殿に、お話しが」
怪訝そうな表情を浮かべながらも、司馬懿は悠然と応じる。
「……良かろう」
当然のように室を去る二人を、犀花は目礼で見送る。
と、張遼が振り返った。
視線がもろに絡んだことで、勢い視線を逸らした犀花は、またも眩暈に襲われ身悶えする。
滑稽な様を哀れに思ったか、張遼はそれきり振り返らなかった。
二人が去り、松柏と取り残された形になった犀花は、改めて挨拶しようと意気込む。
「あの……」
松柏は振り返らない。
声が小さかったかと、もう一度声を掛けてみる。
「あのー、松柏さん……?」
「名を呼ばないで!」
鋭く、空気を切り裂くようだった。
驚き、口を噤む犀花に、松柏はやや気まずげに眉根を寄せる。
「……名は、呼ばないで下さい」
「え、でも……」
それならば、用がある時はどうすればいいのか。
「おいとか、お前とか、幾らでも呼びようがあるでしょう?」
「……はぁ……」
それはそうだが、熟年夫婦でもあるまいに、そんな呼び方をしていいものだろうか。
一人悩む犀花を他所に、松柏はいきなり犀花の上掛けをまくった。
「は?」
足の戒めが解かれ、左右に割られた辺りで意識が覚醒する。
自分の股間が、何やらこんもりと膨らんでいた。
おむつだ。
手早く外されていくのを、唖然として見守る。
狼狽するのを内腿を軽く叩いて戒められ、剥き出しになった股間に陶器が押し当てられた。
何をされるのか分からない。
「え、何」
「早く」
催促され、ようやく気付く。
これは、尿瓶だ。
声なき悲鳴が、犀花の内を迸る。
焦れたか、松柏は犀花の下腹へと手を伸ばした。
ぐっという圧力が、腰骨に響く。
切迫する衝動が、急激に犀花を貫いた。
堪えようと思う間もなく、犀花は陥落したのだった。
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