雨上がりの湿った空気の中を、曹丕は無造作に進み行く。
翻す外套の裾が樹木の子葉に触れて、濃い染みを作るのも気付かなげだ。
その足が、ぴたりと止まる。
今を盛りの紫陽花が、青くまた赤く染まっていた。
曹丕の視線はその紫陽花にではなく、更にその先に佇む女に向けられていた。
見たこともない装束だ。
話に聞く仙女のそれともまた違っている。
女もまた、曹丕をじっと見詰めていた。
見知らぬ者を恐れる目ではない。むしろ、久々に顔を合わせる知己を歓待するような、喜びに満ちた目だった。
何者か問うことはなかった。
理由は定かでないが、曹丕もまた、この女を知っているような気がしたのだ。
けれど、何処で会ったかに関しては、皆目見当も付かなかった。
不思議な話だ。
曹丕自身が最も良く知る己の性格だ。もしも不審な者が居れば、その場で斬り捨てるなりしてもおかしくない。
その気にもならない上、どういう者であるかさえ考えようともしない自分が、いっそ愉快になっていた。
無言の時がただ緩々と過ぎる。
女は、ふっと小首を傾げた。
「……私は、貴方を見るだけだったんだ」
一人言のようだ。
曹丕を見詰めてはいても、曹丕に話し掛けてはいない。
「でも、今、貴方の目に私が映っている……ように、見えるなあ」
当たり前の話である。
曹丕は女を見ている。
だから、曹丕の眼には、きっと女の姿も映っていることだろう。
それとも、もっと何か深い意味を持つ、窺い知れないような暗喩でも含まれていたのだろうか。
「私には、お前が見えている」
曹丕が口を開くと、何故か女は驚いているようだった。
「お前の目にも、私が映っている。……何か、問題でもあるのか」
重ねて問うと、女は自棄に焦り出し、今更辺りを見回している。ここが何処かも分からなかったかのようだ。
そんな筈はなかろうに、と曹丕は微かに笑みを浮かべる。
変わった女だ。
あるいは、本当に仙女の類なのかもしれない。
直に見た者から容姿の話を聞いた訳ではないのだから、この女のような容姿をしていても間違いとは言い切れないだろう。
「お前の名は」
曹丕が問うと、女は少しばかりうろたえたように身を縮込め、恐る恐るの態で答える。
「……」
名前を聞いても、やはり聞き覚えがない。
しかし、それでも曹丕が感じる懐かしさに変わりはなかった。
ますます不思議だ。
曹丕は、外套を大きく広げ、懐を開く。
「来い、」
呼ばれたは、顔を真っ赤にして曹丕とがら空きの脇腹を見比べている。
「でも、私」
貴方のこと、好きになってしまうかもしれない。
の呟きは、意味が分からない。
分からないのが面白く、曹丕を愉快にさせる。
だからもし、そうなったのなら。
「抱いてやろう」
は、突然へなへなと崩れ落ちた。
腰が抜けたらしい。
真っ赤に茹だったような頬を押さえ、目を潤ませている。
面白い、と曹丕はを見詰める。
次期魏王たる曹丕に憧れの眼差しを向ける女は在れど、曹丕自身にこうも反応する女を曹丕は見たことがない。
純粋に、男としての矜持を満たされる。
痛快だった。
「」
空いていた距離を詰め、曹丕はの傍らに膝を着いた。
「ここで良いか」
本当に今ここでという訳にはいかないだろうが、すぐ傍には東屋が設えられている。
そこで、を抱こうと半ば決めていた。
は何も考えられないようで、涙を浮かべた目を曹丕に向け、不意に倒れて来た。
それを同意と受け取って、曹丕はを抱き起こす。
力が抜けて愚図愚図に崩れた体は、酷く熱く柔らかかった。
いっそ、本当にここで抱くか。
幸い、人気はない。
朝露に塗れての情交も、悪くはないように思えた。
の胸乳を服の上から揉みしだくと、の体が大きく跳ねた。
緩々と見開かれる目に、曹丕が映る。
引き寄せられるように唇が重なった。
紫陽花の萼が、露の重みに耐えかねて、ゆらり、と揺れた。
透明な雫が芝を叩いた瞬間、が消えた。
文字通り消え失せたの体に、曹丕の腕はすかっと空振る。
「…………」
醜態である。
曹丕は何事もなかったように立ち上がり、目だけを動かしてを探す。
居ない。
早朝の庭に佇むのは、曹丕一人だった。
――小癪な。
小さく舌打ちし、曹丕は踵を返してその場を後にした。
次は、容赦せん。その手に、足に、楔を打ち付け枷にして、我が身に繋ぎとめてやろう。
物騒なことを考えながら、二度と会えることがないかもしれないとは不思議と考えていなかった。
終