趙雲は一人、愛用の竜胆を振るっていた。
 戦に罷り出る時には剛竜胆を手にする。
 だが、日々の鍛錬、事に一人で打ち込む時には竜胆を好んで使う。
 剛竜胆を入手するまでは、長い間使い込んできた得物だ。最早『相方』と言っていい程に手に馴染んだ槍は、趙雲の迷いも苦悩も全て知り尽くしているように感じる。
 振るえば振るう程に、己の内に潜む迷いが滲み出てくる気がした。
――何故ですか、殿。
 義兄弟を失った悲しみが、逃げ場をなくして怒りに転じているのは分かる。
 けれど、それを抱え込み漏らさぬようにするのが、劉玄徳という人の徳だったように思う。
 自分を律して他者に尽くすべき人が、己の感情に任せて戦火を熾そうとしている。
 一度は自身を納得させつつも、趙雲は晴れぬ迷いを持て余していた。
「どうしたの」
 はっと我に返る。
 いつの間にか、趙雲の傍には女が一人立ち尽くしていた。
 何処か夢を見ているような不明瞭な色の目を、趙雲に注いでいる。
 見たこともない女だった。
 近場の村の娘でもないことは、そのおかしな装束からも明らかだ。
 しかし、茫洋としたこの女の接近を知覚出来なかったことに、驚きを隠せない。
 迷ってはいたが、不意を突かれる程堕落したつもりもない。
 ないだけで、あるいはそこまで府抜けと化していたのかもしれない。
 鬱悶とする趙雲に、女は再び声掛けた。
「どうしたの。……悲しいの?」
 訳も分からず動揺する。
 劉備の行いに不満があった。
 止められぬ自分が歯痒かった。
 だが、『悲しい』とは思って居なかった。
 居ないと思った。
「……何故、そう思われる」
 見知らぬ人間に対し、まったく警戒しない己に、趙雲は密かに危惧していた。
 行軍を控えた身である。
 警戒してしかるべきなのに、何故かこの女に対しては構えるべき理由を見い出せない。
 見知らぬ怪しい女、それだけで十分な筈なのに、不思議だった。
 女は趙雲の顔をまじまじと見詰めて、首を傾げた。
「……何となく」
 勇猛かつ華麗な槍さばきに見入っていたが、何故か、穂先の輝きが、しなる槍の巻き起こす風の音が、悲しく聞こえてしょうがなかったのだと言う。
 趙雲は、改めて愛用の槍を見た。
 常と変わらず、冴え冴えと研がれた穂先に月の光が映っている。
「それ、竜胆?」
 当たり前のように槍の銘を言い当てられ、趙雲は槍を持つ手に力を込める。
 女は気付かないようで、近付くこともなく、かと言って遠退くこともなく竜胆を見詰めていた。
 ふ、と顔を上げた女の目と趙雲の目が合う。
 にこりと笑われ、趙雲は度肝を抜かれた。
 警戒しなくてはと奮起している己を、まるで母親のように笑い、他愛無い悪戯を咎められたかのように感じた。
 何者だろう。
 今更ながらに考え込むが、当たっていると思えるものは、一つたりとて思い浮かばない。
「竜胆の花言葉、知ってる?」
 考え込む趙雲とは裏腹に、女は酷く呑気だ。
 焦っていることを知られたくなくて、趙雲は取り繕いながらも素直に首を横に振る。
「竜胆の花言葉はね、『あなたの哀しみに寄り添う』って言うの」
 心臓が一つ、大きく鳴動する。
 花言葉と己の今の状態が、あまりにぴったりと添ぐい過ぎている。
 竜胆を見ると、不思議と先程までの硬質な感が消え失せていた。
 女の言葉を証しているようにも思え、何故だかばつの悪い思いがした。
「……貴女は、何者です」
 どうにも堪らなくなって問い詰めるが、女は首を傾げている。
「では、貴女の名は」

 これには素直に答えた。
 何者かの自覚もないのかもしれない。の目付きは、相変わらず茫洋としていた。
 の目に敵意はない。
 むしろ温かな、愛しげとも取れる目をしていた。
――何を、馬鹿な。
 埒もない考えを振り切るように、趙雲は頭を振る。
「ちょーうん」
 馴れ馴れしく呼ばれ、趙雲は口元をへの字に曲げてしまう。
 嫌だったのではなく、無性に恥ずかしかったからだが、わざわざ口にすることもない。
「私の名前、呼んでくれる?」
 何故かも恥ずかしそうに、そんなことを言い出す。
 訳が分からない。
「……
 分からないままに呼ぶ。
 願いを聞き届けた趙雲に、は頬を鮮やかに染め、『有難う』と呟いた。
 瞬間、の姿は掻き消えた。
 止める間もない。
 の立っていた所へ駆け付けるが、そこには何の痕跡も残されていなかった。
 本当に、何なのだろう。
 名前を呼んだだけで礼を言われる覚えはない。
 礼を言うとすれば、それは。
 趙雲は、いつの間にか自分の迷いが晴れていることに気が付いた。
 憤りも悲しみも、に見抜かれ指摘され、形を為したことで綺麗さっぱり消え失せていたのだ。
 今なら、これまで通り劉備に付き従い、彼の槍として迷いなく戦場を駆けることが出来る。
 何をされたということもない、何でもない会話を二つ三つ交わしただけだった。
 事実はどうであっても、結果的にはが趙雲の迷いを吹き飛ばしたことになる。趙雲一人ではどうにも出来なかったことだ。
 竜胆は趙雲の心に添って居てくれたけれど、ただそれだけだ。
 あの女が、が掛けてくれた言葉だけが、趙雲を救ってくれた。

 気配もない暗闇に向け、趙雲はの名を呼んだ。
「……有難う」
 呟きは、闇にのみ響き聞き拾う者もない。
 その先の言葉は、しかし趙雲は胸の内に秘められた。
――またいつか、会うことが叶うなら。
 未練がましく闇を見詰めた後、趙雲は竜胆を手にその場を去る。
 に再会する為には、まず趙雲が生きて戻らねばならない。
 わずかな間に己の脳裏に焼き付いた女の姿と名を、これより趙雲は己が帰還の縋りとした。

  終

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