深い闇の中だった。
天と地の境目も見えない、純然たる黒の世界。
常の装束であれば、周泰の姿もほぼ闇に埋没していただろう。
けれど、この時の周泰は常とは真逆の、真っ白い装束を身に纏っていた。
不思議と違和感はない。
すらりと音を立てて鞘から刃が引き抜かれる。
白い周泰の装束よりも、尚白く輝く光のような刃だった。
それを、振る。
風を切り唸りを上げる刃は、見る者の魂をも斬り裂くような鋭さを備えていた。
無心に振る。
型を一通りなぞるように虚空を割いて、周泰は刃を納めた。
ぱちんと弾けるような音と共に、世界は一変する。
それまで辺りを覆い尽くしていた闇がひび割れ、斜めに吸い上げられていくと同時に月の浮かぶ静かな原野風景が生じていた。
同時に、周泰の装束も、いつも通りの黒に赤を差したものに戻っていた。
ほの明るい草原の向こうに、頬を上気させた女が立っている。
「…………」
名を呼ぶと、女――は犬ころのように無邪気に駆けて来た。
周泰の前に立つと、周泰の顔を見上げてにっこり笑う。
小さい。
と言っても、周泰の長身に掛かれば大概の者は小さく見える。
見えないのは精々太史慈位の者だから、仕方がないことだった。
しかし、周泰にとっての小ささは特別のものだった。
愛おしいと思える大きさなのだ。
それは、むしろ周泰がを愛おしいと思っている事実からの派生と言うべきだろう。
生憎、周泰が気付く様子はない。
が気付いた様子もない。
二人はただ、こうして向かい合わせている現状にこそ、喜びを見出しているようだった。
「周泰の殺陣、凄いね! 刀がこう、綺麗に舞ってて、鳥が羽ばたいてるみたいに見えた!」
あくまで『型』の稽古であり、演武である。本来、殺陣などとは決して言わないが、周泰は敢えての言葉を正そうとは思わなかった。
が茶化している訳でなし、頭ごなしに高説垂れるのは周泰の望むところではない。
ただ、が嬉しそうに目を輝かせていることの方が嬉しい。
「いつもの服と、違う色だったね! 2Pカラーでもないよね。でも、ホントに白鷺みたいだったよ!」
と、それまで足元をくすぐるだけだった草むらに、一斉に白い花がさざめく。
周泰との周りには、無数の鷺草が咲き誇っていた。
風に揺らめく様は、小さな鷺が飛び立とうとしている瞬間に良く似ている。
二人は辺りを見回し、同時に互いを見詰める。
口元には示し合せたように頬笑みが浮かび、月光を灯す鷺草に囲まれて、抱きしめ合っていた。
朝の光が眩い。
牀から起き上がると、軽く頭を振って覚醒を促す。
「……?……」
誰か居たような気がする。
けれど、それが誰だったか思い出せない。
とても重要で大切なことだったように思うのだが、掻き失せたように記憶がなかった。
夢だったのかもしれない。
ならば、現に帰った拍子に記憶を置き去りにしてきたとて不思議はない。
現と夢とは、天と地程の開きがある。遠い別世界であった。
周泰は身支度を整え、立て掛けてあった愛刀を手にする。
ふと、誰かの面差しが過ぎったような気がした。
しばし考え込み、刀を腰に下げる。
思い出せない『誰か』のことを考えても詮なきことと振り払う。
夢で会ったひとならば、また夢で逢えばいい。
否、逢いに行く。
必ず。
周泰は名残惜しく牀を一瞥し、寝室を抜け出した。
牀の上には淡い朝の光がわだかまり、優しげに周泰を見送っていた。
終