「踏んじゃう」
唐突に聞こえた声に、馬超は目を向ける。
いつからそこに居たのか、女が一人、馬超を咎めるような眼で見ていた。
辺り一面見通しのきく、広大な野原だ。
女が何処からいつどうやって来たのか、それさえ定かでない。
不気味ではあるが、敵意は感じなかった。
女が着ている装束が、どうにも見覚えのない不可思議な形をしていたからかもしれない。
「誰だ」
「え、誰だって言われても……」
当然掛けられる誰何の問いを、女は困り顔で受け止めた。
演技している風でもないし、得物を隠し持っているようでもない。
持っていた所で、生半な腕では馬超に傷一つ負わせることは叶わないだろうが。
「名は」
「……」
か、と馬超が繰り返すと、こっくり頷く。
「良い名だな」
さしたる感動もなく褒め、一瞥して顔を戻す。
「踏んじゃうって」
慌てたように駆け寄って来るの視線を辿ると、またがった馬の脚元に小さな花が見えていた。
菫だ。
どうやらは、この小さな花を目敏く見付け、馬超の馬が踏み潰すのを嫌がったものらしい。
こんな花、何処にでも咲いているだろうにとやや鼻白む。
「ちょっと馬の進路変えてくれればいいだけでしょ。踏まないでよ」
妙に馴れ馴れしい。
は、馬超のことを知っているようだった。
根拠はないが、礼を弁えない口調や馬超を見る目がそう感じさせる。
「花を踏み荒らすのは、正義じゃないでしょ」
この一言で、やはりは馬超を知っていることが知れる。
それも、大層詳しく、だ。
馬超が正義を口にすることは多いが、慣れ合うことを良しとしない性格である。正義の言葉を聞いたことがあるのは、もっぱら味方の、しかも親しい者のみと相場が知れている。
何者かを問うのは避けた。
馬超が、を知らないからだ。
それは何だか腹立たしかった。だから、聞かずに居ることにした。
代わりに、身軽く馬から降りると、が守ろうとした菫の花を茎の中程でぶちりと千切る。
あ、とが抗議の声を上げるのを遮り、馬超は口の端を引き上げた。
「踏み荒らして悪いのは、民達が耕して得た作物のみだ。こんなものはな」
馬超の指がの髪に触れる。
指はすぐさま離れたが、の髪には菫の花が残された。
「お前の髪でも飾らせておけばいいのだ」
はびっくりしたように目を見開き、次いでみるみる顔を赤らめた。
こんなことで、ずいぶん初心な女だなと、何だか愉快になる。
「……お前、何処へ行く」
連れて行ってやろうと気安く請け負う馬超に、は再び困り顔を見せた。
「行く宛がないのか」
は辺りを見回し、不安そうに瞳を揺らす。
行く宛がないのだ。
馬超はそう決め付けて、馬上に戻る。
手を差し出すと、が眩しげに目を細めて馬超を見上げた。
「ならば、俺の行く先へ付き合え」
尊大な物言いだったが、馬超が自身の発言を尊大と思っている様子はない。
当たり前のように連れて行くつもりでいるらしかった。
の困り顔は、苦笑に転じた。
「……連れて行って、くれるなら」
「おお、連れて行ってやろう」
話は安易にまとまった。
馬超の手にの手が重ねられようとした瞬間、突風が二人の視界を奪う。
一瞬だった。
わずかな瞬きの間に、の姿は消えていた。
「……何」
唸るように呟き、慌てて辺りを探すが、人の気配の欠片もない。
探しに探して、菫の花が落ちているのを見付けただけだ。
の髪から落ちただろうことは、菫を摘んだ馬超が一番良く分かっている。
「……?」
応える者はない。
馬超は途方に暮れつつも、やむなく馬の元へ戻る。
馬上に上がり、高くなった視界の先を探してみるが、やはりの姿を見出すことは叶わなかった。
手の中には、の髪に挿した菫の花だけが残されている。
一瞬の邂逅だった。
思えば、荒むままに進んだ道程にあって、これ程あっさりと心を許したことはなかった。
が何者であったのか、馬超には知る由もない。
けれど、ほんの寸の間とはいえ馬超の心を温めてくれたことに間違いなかった。
約束をしたのだから、と馬超は菫の花をそっと包み込む。
俺の行く先に付き合うと言ったのだから、いずれまた会えるだろう。
馬超は襟の内に菫の花を仕舞い込むと、馬首を巡らせて目指す進路へと駆けさせた。
その視線の先に、蜀がある。
終