父親を送ってから、凌統はしばし荒れていた。
 本人は何でもないように振舞っている。
 いるがしかし、隠し果せないどす黒い気が辺りを威圧し、同席する者の気をどうにも沈ませる。
 目の前で父を亡くしたのだから、致し方ないとも言えた。
 だが、いっそ吐き出してくれれば宥めようもあるものを、下手に何でもない振りをするもので周囲の者も却って手を焼く。
 凌統自身、そんな周囲の痛ましい気遣いを覚ってか、必要以上に人と交わらなくなっていた。
「なぁに、いざとなれば何とでもしますよ」
 主君の労りにも軽口を吐いて受け答え、素直になろうとしない。
 これはもう、時間が傷を癒してくれるのを待つしかないと、周囲が半ば諦めているような有様だった。
 そんな次第で、ここのところ凌統は一人で過ごすことが多い。
 ぶらぶらと、気楽に(傍目には、だが)出歩いている時に、ふと見覚えのない花を見付けた。
 花を見ることも久しいような気がする。
 父の死に気を取られ、家人が心尽くしに生ける花にも気が付かなかった凌統であったから、確かにそれは珍しいことと言えた。
 何の気なしに膝を着いて繁々見ていると、頭の上の方から声が掛かった。
「あれ、スイートピーだ」
 はっと顔を上げると、見知らぬ女が凌統の脇に膝を着くところだった。
「スイートピーなんて、時代考証に合ってないよーな」
 ぶつぶつと訳のわからない一人言を呟いている。
「……あんた、誰」
 無意識に低い声で威嚇する凌統に、女はおや、と目を丸くした。
「あ、ごめん。珍しいなって思って、つい」
 立ち去ろうとする女を、凌統は慌てて引き止めた。
 珍しい花なのは間違いないし、この花が自分のものだと言う訳でもない。
 見ず知らずの女に八つ当たりしてしまったことを、さすがに凌統も恥じた。
「悪い、そういうつもりで言ったんじゃないんだ……ただ、その、あんたの顔、見掛けないなと思ってね」
 そうだろうか。
 言ってから、凌統はふと首を傾げた。
 知らない顔である筈の女だったが、良く良く見知った仲であるような気もする。
「あんた、名前は?」
、です」
 やはり聞き覚えはない。
 けれど、懐かしいような気持ちはますます膨らむばかりだ。
 何処かで会ったのかもしれないが、どうしても思い出せない。
 一人黙り込む凌統に、も何かを感じたようだった。
「これね、スイートピー」
 微風にもゆらゆら揺れる可憐な花を、はそっと指先で指し示す。
 柔らかな花弁は、指先で突いただけでも傷付いてしまいそうに見えた。
「花言葉はね、『私を忘れないで』」
「……へぇ」
 興味なさげに、相槌として呟く。
 実際、興味はない。
 花が何であれ、どんな意味を持つに付け、凌統には何の関係もない。花だけではない、この世のすべて、最早千緒万端尽く己と関わり合いなどない。
 そう思った。
 父を目の前で殺された不甲斐ない息子に、何の意味があるのか。教えてくれるのであれば教えて欲しい。
「貴方が、お父さん忘れたら、駄目だよ」
 瞬間、凌統の目が大きく引き剥かれる。
 取り繕ってきた殻が一瞬で崩壊したかのように、剥き出しの殺意がに向けて注がれた。
 怯えなのか、それとも他の理由によるものか、は目に涙を浮かべた。
「……親に尽くすのが孝行って、それは合ってるかもしれないけど、凌統が傷付いたままで下向いてたら、お父さんの生きて来た意味がなくなっちゃうよ。少なくとも、私はそう思う。凌統は、お父さんの死に方にこだわって、お父さんの生き様を無駄にするつもりなの」
「何を、分かったように……」
 獰猛な獣が唸り声を上げるように、凌統の唇は捲れ上がり白く硬質な歯を見せ付ける。
 上下の歯が細かに擦り合い、ぎりぎりと痛々しい音を立ててを脅かした。
「ごめん、分かる筈、なかったよね」
 の眦から涙が零れ落ちる。
 ころころと転がって落ちた雫は、凌統の気合いを勢い良く挫く。
「分からないけど、でも、分かりたいよ。私は凌統のこと、好きだもん」
 唐突な告白に、凌統は毒気を抜かれる思いだ。
 唖然として言葉を失う凌統を余所に、は震える声を紡いだ。
「凌統の辛い気持ちは、凌統だけのものだって思う。私なんかじゃ分からないだろうし、分かったつもりになんてなれないよ。ただ、私は、凌統がお父さんと過ごした時間忘れちゃってるみたいなのが何だか嫌だ。死んだ時のことだけ覚えていたいような、そんな嫌な人じゃ、なかったんでしょ」
「それは……、俺の、父上は……」
 常に忠節を重んじる、律儀な優しい父だった。
 決して華のある将とは言えなかったかもしれないが、君主に誠実に仕え、その義を全うした、誇らしい父だった。
「……スイートピーね、ホントは、こんなとこに咲いてる花じゃないんだよ」
 偶然には思えない。
 例え偶然であっても、スイートピーはここに咲き、そこに凌統が来て、その花言葉を知るが居合わせた。
 そう定めたのは、忘れて欲しくなかったのは、誰だったろう。
「俺は」
 優しい淡い花弁が揺れ、凌統に何事か訴えているかのようだ。
「忘れてなんか……」
――統。
 父が死んでから、初めて断末魔以外の声が蘇る。
 自分を呼ぶ、何処か自慢げでくすぐったげな、父の声だった。
 凌統の目から、涙が零れ落ちる。
 そう言えば、父が死んでから泣いたことがなかった。
 初めて泣いた。
 初めて、泣けた。
 堰き止めていた感情が膨れ上がり、押し流されて、不思議と肩が軽かった。
 凌統が涙を拭い、傍らのを振り返る。
 この涙はのお陰で流せたのだと、へそ曲がりなりに感謝を込めて、精一杯の礼を皮肉を込めて言うつもりだった。
 けれど、そこにの姿はなかった。
 ただ、がスイートピーだと教えてくれた花だけが、頼りなげに揺れているだけだ。
「え」
 周囲を見回しても、人の影さえ見えない。
 悪戯をするような場合でもないし、するような女にも見えなかった。
「……お前、か?」
 スイートピーに問い掛けるが、無論答えてくれることはない。
 第一、埒もなさ過ぎで馬鹿馬鹿しい。
 花が、人に化けて語りかけるなど、そんな。
 凌統は気が抜けたように腰をおろし、スイートピーの花を横目で見る。
――私を忘れないで。
 の声が鮮明に蘇った。
「……ったく」
 凌統はしばしスイートピーと共に風に吹かれていた。
 おもむろに立ち上がり、屋敷に戻る道を辿る。
「忘れられる訳、ないっつの」
 ぽつりと呟いた声は、誰に聞かれることもなくそのまま消えた。

  終

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