呂布が荒れているのは常のことで、だから誰も気が付かなかった。
 こういう場合は触らぬ神にとばかりに、呂布の周りから人気がなくなる。
 そんな応対は、呂布の寵愛を一身に受ける貂蝉であっても変わらない。
 用があれば、来よう。
 なければ、来ない。
 機嫌を取りにしなやかな肢体を擦り付けに来るには、今しばらく時が過ぎ、呂布の鬱憤が別方向に向いてからでなくてはならない。
 単純な男だから、暴れれば気が静まると思われている。
 否定をするつもりはない。
 呂布とて、面倒事は陳宮辺りがすればいいことと思い定めている。
 だが、ここ数日の憤りは、時が過ぎて解決してくれることではなかった。
――貂蝉……!
 彼の舞姫こそが、呂布の憤りの原因だった。
 貂蝉に惚れられているなどと自惚れているつもりはなかった。
 比類なき武を利用しようと言うならそれで良かった。
 だが、その微笑みが曇る原因を今、呂布は測れずに居る。
 董卓は倒した。
 流浪の生活は続いたが、今は小さいながら落ち着ける城に居を構えている。
 都に蔓延る漢に寄生した輩は、必ず呂布が撃ち滅ぼすと約定してさえ、貂蝉の憂いが晴れることはなかった。
 何故だ、と考えれば考えるだけ苛立ちは募った。
「……貂蝉……!」
 池の淵に立ち、想い人の名を呼ぶ。
 答える者はない。
 筈だった。
「揺れてる」
 思い掛けずすぐ傍から、見知らぬ女の声が上がる。
 呂布の隣に、膝を抱えて座る女が居た。
 見慣れぬ装束を身に纏い、呂布の傍らだと言うのにのんびりとしていた。
「何だ、お前は」
「……何だと言われても」
 呂布の恫喝にも怯む様子もなく、ちろっと目線を向けただけですぐに目の前の池に視線を戻す。
 何となく合わせて池を見遣るのだが、呂布には女が何を見ているのか分からなかった。
「花を、見てるんだよ。ほら、布袋葵」
 確かに、水面にはあちらこちらに紫色の花が浮いている。
 背伸びするように立ち上がった花は、風に揺られて頼りなく揺れていた。
 だが、どうということもない。
 水辺に咲く花は幾らもあろうし、この花が特別とは思えなかった。
 胡乱な表情から察したのか、女はくすりと笑い、布袋葵を指さす。
「これ、一日くらいしか咲いてないのね。だから、こうして見れるのは、結構貴重」
 そんなものか。
 呂布はしかし、納得の行ったような行かないような、はっきり言ってどうでもいい。
 女は苦笑して、背後を振り返る。
 人が居る訳ではなかったが、そちらには城の住居部分に当たる建物が設えられていた。
「貂蝉に、教えて上げたら」
 馴れ馴れしく呼び捨てにする女に、呂布は眉間に皺を寄せる。
 タメ口なのにも今更気が付いた。
「何だ、お前は」
 同じように『何だと言われても』と前置きした上で、女は自分を指差した。

 女の名なのだろうが、呂布の興味を引くものではない。
 だが、手にした方天画戟を振り下ろしてやろうとは、何故か思わなかった。
 そんな価値もないと投げ捨てていたのかもしれない。
 もまた、そんな呂布には興味がないのか、池に咲く布袋葵に見入っている。
「貂蝉、貴方のことが好きなんだよ」
 見入っていると思ったから、急にそんな言葉が発せられる。
 唐突過ぎて呂布が言葉を失っていると、は呂布を見上げてにこりと笑う。
「利用していただけのつもりだったのかもしれないけど、貴方のことが好きになっちゃって、それで、利用してきた自分が嫌になって落ち込んじゃってるのね」
 だから、さ、とは続ける。
 けれど、それ以上の言葉はなかった。
 何が『だから』なのか。
 利用されている事実を改めてあからさまにされ、呂布の黒い感情が吹き出しそうになる。
 貂蝉ならば、利用されてもいいと思っている。
 それでも、利用して欲しいと希っている訳では決してない。
 呂布が利用して良い、されてやろうと許すのは、偏に。
「貴方が、貂蝉のことを好きで利用されてやっているって言うなら」
 の目に布袋葵の花が映っている。
 しかし、は最早布袋葵を見てはいなかった。
「言ってあげて。私が、今言ったみたいに、それでもいいんだって言ってあげて。……そしたら、貂蝉も、貴方を頼っていいんだって、利用するんじゃなくって、心を許して頼っていいんだって思えると思うから」
 何故か深く納得するものがあった。
 貂蝉の憂鬱の原因は、が言う通りに違いない。ならば、貂蝉が呂布を見て眼を曇らせるのか、はっきり説明できる。
 呂布が口を開くことで貂蝉の憂いが晴れるのであれば、何と言うこともない。
 貂蝉の為であれば、呂布は己が武を奮うことにわずかな迷いもなかった。
「どうして、お前にそんなことが分かる」
 その点だけが、不思議だった。
 呂布の問いに、は苦笑しながら立ち上がり、腰に着いた土や枯れ草を叩き落す。
「布袋葵の花言葉はさ、『揺れる想い』って言うんだよ」
 揺れは不安定を連想させる。
 けれども揺れは、揺れ合うことで互いに互いの距離を縮めることにもなる。
 貂蝉の揺れは呂布の惑いとなって呂布を揺らした。
 その揺れを、貂蝉との距離を縮める揺れと考えたらいい。
 揺れる理由は、互いに同じなのだから。
 は言うだけ言って、じゃあね、と手を振った。
「俺の問いに答えろ」
 呂布は煙に巻かれなかった。
 意外に頑固らしい。
 は横目で呂布を見遣る。
 その目が、揺れていた。
「……好きだからー」
 二人が、と付け足すが、はしばらくして足を止め、呂布を振り返る。
「ものっそ強いのに、馬鹿で不器用で単純で、でもすごく純粋で、研ぎ澄まされてて、そういうのが、全部好きだよ」
 頑張ってね、と呟くと、は呂布に軽く手を振る。
 その姿が不意に消えた。
 目の前で消えたに、呂布はただ呆然とするより他ない。
 何だったのかと考えるも、答えは見出せそうもなかった。
――言ってあげて。
 の言葉だけが、呂布の胸の内を木霊する。
 真実がの告げた通りとは限るまい。
 けれど、呂布がいいのだと、貂蝉が利用したければ幾らでも利用すればいいと思って居ることは紛れもない事実であり、それを告げることなど他愛もない。
 それで貂蝉の憂いが晴れるのであれば、どうと言うこともなかった。
 池を見遣ると、布袋葵の花が揺れている。
 貂蝉の為に一輪手折ろうとして、やめた。
 が珍しいと言った花だ。
 ならば、この花は、の為にそのままに。
 背を向けた呂布の背後で、布袋葵は静かに揺れていた。

  終

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