今日はやけに早い。
 野っ原に転がり、目を閉じたままで人の気配を感じる。
 眠っていたからか、気配を感知したのは本当に今さっきのことだ。
 親父が聞けば怒るだろうな、と孫策は鷹揚に考えていた。
 他人に懐近くにまで入られるなど、武人としての心構えが足りない、とでも言うだろうか。
 瞼に写る父親は、孫策の想像に何も答えずにやりと笑うのみだった。
 面倒臭げに目を開け、そこに見出したのは断金の友ではなく、顔も知らぬ女だった。
 不思議な装束を着こんでいる。
 服にも見覚えはないから、異民族だとしても相当遠くから来たのだろう。
「お前、名前は?」
 いきなり目を覚ました男にいきなり問い掛けられ、女は戸惑っているようだった。
 言葉が話せないのかもしれないと思ったが、そうではなく単に面喰って居ただけのようだ。
「……
 躊躇いがちに答えるに、孫策はにっこりと微笑み掛ける。
「そっか、か。いー名前だな」
 微塵の殺気も感じないことから、孫策はに対する警戒を容易く解いていた。
 無論、の体付きや体勢などからも、が孫策を狙って忍び寄ってきた類の者ではないと判断したのだが、が気付いた様子はない。
 懐っこい孫策の様にただ戸惑っているようで、目を瞬かせている。
 その様が、無性に可愛く見えた。
、お前、どこの人間だ」
「どこって……に、日本?」
 聞いたことがない。
 部族の名か何かかと理解して、質問を変えることにした。
「家は? 住んでるとこ、どこだよ」
 と、の目が揺れる。
 不安そうに辺りを見回すが、結局困ったような顔をして視線を孫策に戻した。
「……分かんなくなっちまったのか?」
 やや間が空いて、こく、と頷くに、孫策は目を輝かせた。
「じゃ、俺んとこ来いよ!」
 身分も素性も定かでない相手に対し、気安く言ってのける。
 周瑜が聞いたら目を剥いただろう。
 もまた、突然の申し出に困惑しているようだ。意味を捉えかねて、首を傾げている。
「大事にするからよ。な!」
 重ねて申し出る孫策に、は顔を赤らめた。
 意味深な言葉は、ともすれば求婚とも取れなくない。
「……え、それ、どーいう……」
「だから、なるべくいい待遇になるよう俺が口利きして遣るからよ、来いよ!」
 あくまで明るく無邪気に答える孫策に、の表情はみるみる内に変わった。
 呆れたような、怒ったような顔だ。
 ぷい、とそっぽを向くと、そのまま立ち上がってすたすた歩き出す。
「何だよ」
 孫策がの後を追うと、は頑なに振り返らずまっすぐ歩いていく。
 屋敷がある方向とは正反対だ。
 面倒な軍議を抜け出して来ていたから別に構わないが、を連れて帰るとなるとあまり遠くに行くのは辛い。
 孫策が、ではなく、が辛かろう。
 馬でもそれなりある距離だ。追跡の糸口にされては面倒と、今日は馬には乗ってきていなかった。

 幾度か名を呼び続けると、いきなり蒲公英の花を突き出された。
 勢いで受け取り、を見遣る。
「……何だよ、これ」
 に向けて突き出すように見せると、はぼそりと吐き捨てる。
「花言葉」
「知らねーよ」
 武門の誉れ高い孫家に生まれ、小難しい男女の遣り取りなどには縁遠い孫策である。
 花言葉など知らずとも、引く手数多の身の上だった。
「思わせぶり!」
 つんけんと顔を逸らして歩き出そうとしたを、孫策は軽々と抱き寄せた。
 力の作用など、物の数ではない。
 瞬きする間に抱え込まれて、は表情すら取り繕えなかった。
「『思わせぶり』だと思ったのかよ」
 耳元に吹き掛けられる息がこそばゆい。
 むずむずするのを堪えて黙りこくるを抱いていた孫策が、突然ふるっと震えた。
 いきなり爆笑され、は面喰う。
「いいぜ! 嫁に来いよ!」
 あっさりと受け入れ、機嫌良くを抱え直す。
 もう決めた、決まったとばかりに傍若無人にを抱き上げて元来た道を戻る孫策に、はようやく正気に返ってじたばたと無駄な抵抗を繰り返す。
「ばばば、馬鹿! あんたには大喬って奥さんが、ちゃんといるでしょうよ!」
「大喬のこと知ってんのか。なら、話が早ぇ」
 暖簾に腕押し、糠に釘を素で行く孫策に、の追及は空回りするばかりだ。
 わぁわぁと喚いていると、不意に孫策の笑みが掻き消える。
「嫌なのかよ」
 真顔で目の奥を見詰められる。
 力ある視線に射抜かれて、の無駄口はぴたりと押し留められた。
「……じゃ、いいよな!」
 満面の笑みを浮かべる孫策に、はぐったりと力を抜いた。
 勝てない、と態度で示す。
 孫策は、勝った、とばかりに上機嫌で、鼻歌まで歌い出しそうな雰囲気だった。
 その時だ。
 突風が吹き抜け、砂塵を巻き起こす。
 沸き立つ埃に孫策も思わず目を閉じた。
 次の瞬間、が消えた。
 今の今まで手の中にあった温もりが掻き消え、ただが突き付けて来た蒲公英だけが、孫策の手に残されている。
 唖然としてが居た空間を見詰めるが、が戻ることは当然なかった。
「……何だよ」
 憮然として辺りを見回す。
 綿毛でもあるまいに、風に吹かれて消え去ることはないだろう。
 どちらが思わせぶりなのか分からない。
 口をへの字にする孫策を、遠くから呼ぶ者がある。
 今度こそ正真正銘、断金の友の声だった。
 見付かってしまったことに唇を尖らせ、孫策は今一度辺りを見回す。
「……ま、いいか……」
 次に会ったら、今度こそ、首に縄を付けてでも連れ帰ってやろう。
 一度決めたことは、貫く主義だ。
「おーい、周瑜ー!」
 腕を振って呼び掛ける孫策の手には、蒲公英の花が大切に握られていた。

  終

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