刃が風を切る音が響く。
 何もかもを斬り裂くような、鋭い刃音だ。
 それでも張遼の表情は冴えない。
 耳に残る風切り音は、もっともっと凄まじかった。
 張遼の全身から吹き出した汗が、ぱっと飛び散り見知らぬ花へと落ちる。
「……?」
 特に意味もなく、指を伸ばした。
 かさりと乾いた音がする。
 鮮やかな色彩とは裏腹に、生きながら干からびたような感触だった。
――自分に似ている。
 何とはなしにそう思った。
 見てくれだけが整った、触れれば脆い己が武と良く似ている。
 ふ、と自嘲が漏れ、そうして自嘲してしまうことにもまた自嘲した。

 魏軍に降ってからも、張遼の胸に息衝いている影がある。
 それは、至高の武と張遼自身が認めた、呂奉先の鮮烈な影だった。
 彼が処刑されてから、もうずいぶんな時が経っている。
 張遼の記憶も、それに合わせて薄れていい筈だった。
 しかし、声が遠退き、思い出の一つ一つが希薄になっても、呂布の影は今も張遼の瞼に焼き付いている。
 目を閉じればまざまざと蘇るその姿は、目を抉れば彼が蘇るのではないかと思わせるほど、くっきりとしていた。
 いつからか、張遼の胸に焦りが生じていた。
 何故呂布の影が消えないのか。
 それは、己の武が彼の武に未だ程遠く、近付いてすらいないからではないかと思い付いてしまったからだ。
 至高の武への到達を目指す張遼にとって、それは凄まじい恐怖だった。
 足掻いても何の足しにもならない修行に気が付いた時、どうしようもない虚しさに駆られる。
 限界などと言う生易しい言葉でなく、最初から何もなかったような、そんな埒もない不安に押し潰されそうになるのだ。
 鍛えている。
 それは間違いない。
 だが、その鍛錬そのものが無意味だと気付いた時、打ちのめされるだろう衝撃は計り知れない。
 己が道は、果たして正しいのだろうか。
 この道は、目指す至高の武に続いているのだろうか。
 何の保証もない孤独な修練の道は、傍から見ている分には分かり得ない重圧を生む。
 逃げだせばいい。
 投げ出してさえしまえば、楽になれる。
 武の極みを目指すことに何の意味があるのか。
 張遼の手に汗が滲む。
 あまりに集中し過ぎていた為か、人の気配に気付けなかった。
 脆弱な神経に、情けなさすら覚える。
 しかし、そこに居た女はそんな張遼の心持ちなど気にした様子もなく、目を輝かせて張遼を見詰めている。
「遼来々!」
 唐突な宣言に、面喰う。
 張遼が来たのではない、来たのは女の方だ。
「……貴殿は、どなただったろうか」
 侵入者と言うより闖入者と呼ぶに相応しい出で立ちの女は、張遼の戸惑いも何のその、明るい笑みを浮かべて張遼を見詰めている。
 憧れ慕う無邪気な目に、面映ゆいような気さえした。
「その……貴殿は」
「あ、私、は、、です」
 緊張しているのか、途切れ途切れのいかにも怪しい言葉遣いである。
 紅潮した頬、潤んだ目がきらきらとして、張遼の困惑を深めるばかりだ。
「私は、今」
 鍛錬中であるから遠慮してほしい。
 そう言い掛けて、言えなくなった。
 至高の武から目を背け、逃げ出そうか逃げ出すまいか悩んでいた身でありながら、鍛錬中とはなんとおこがましい。
 俯いて黙りこくる張遼に、さすがにも気付いたのか小首を傾げている。
「……どうか、しました?」
 馴れ馴れしいとは思うものの、どうしてか嫌悪がない。
 いったい何者かと気にはなったが、口が素直に滑っていた。
 至高の武に到達する気配もない己の武に、恥じている。
 武人たる者が口にしていい泣き言ではなかった。
 それを口にしている妙に、張遼は唇を曲げる。
 の顔が、心配げに曇る。
 張遼が唇を曲げたのが、苦悩の表情に映ったのかもしれない。
 いきなり張遼の手を握ると、ぶんぶんと上下に振り出した。
「大丈夫! 大丈夫、です、張遼! さん!」
 取って付けたような『さん』付けにも面喰う。
 将軍と敬われる張遼にとって、『さん』付けは親類縁者の同輩扱いに等しい。
 に馬鹿にしている様子は見られず、張遼は曖昧に頷くしかなかった。
「こんなに努力してるって、手が言ってるんだから、絶対大丈夫!」
 手が。
 解放された手を広げると、無数に浮いた肉刺の上に肉刺が重なる。
 幾度も潰し、固くなった皮が隆起していた。
 張遼が武に精進してきた証そのものだった。
――無、ではなかったのだろうか。
 ぼんやりと考える。
「……しかし……私は未だ、呂布殿の武には足元にも……」
 零れた陰の感情に動揺するも、はあっさりと否定する。
「目指すところがあるってことは、それだけ目標が定まってるってことじゃあないかと! それに、目標がある内は、それだけ伸びやすいってことですよ!」
 比較対象とするのではなく、目指す指標とすればいい。
 は断言して、拳を握る。
「大丈夫、張遼さんは、努力積み重ねの人だから!!」
 己の何を知っていると言うのだろう。
 分からないが、得体の知れない自信に満ちたの言葉には、妙な説得力があった。
「……そうかも、知れぬ」
 呂布の武が天に愛されたものならば、張遼の武は地を駆けるものなのかもしれない。
 泥に塗れ無残な姿であっても、畑を耕す農民達のように力強い武。
 そんな武を持ち、それを追求することこそが、張遼に相応しい武なのだろう。
「これ」
 が、件の見知らぬ花を指す。
「これ、麦藁菊と言って。花言葉があって、『永久の記憶』って言うんです」
 乾いた花弁の感触に、生きながら渇くおぞましさではなく、悠久に堪える強さを感じ取った者が居たのだろう。
 見方を変えれば、物事は如何様にも変化する。
 改めて、張遼は己が武の道筋を見出したような気がした。
「人中の呂布の凄さって、直に見られたこと自体凄いラッキーだと思うんですよ! 忘れられなくったって仕方ないし、だったら忘れないでいてもいいと思うし」
 ね、と笑うに、張遼も表情を緩める。
 お陰でもどかしい苛立ちから解放されていた。
 ふと目を閉じ、開放感を味わう。
 涼やかな風が吹き抜けるように、張遼の胸の内はただ穏やかだった。
 再び眼を開いた時、突如としての姿が消えた。
 あたかも水に映った風景が、無粋な投石に波打って掻き消されるように、綺麗に、一瞬で消え失せていた。
 唖然とする張遼だったが、辺りを見回しても誰も居ない。
 また、何の気配も感じられず、がここに居ないことのみを確認するに留まった。
「…………」
 礼を、言いそびれた。
 意気消沈したように腰を下ろした張遼は、傍らの麦藁菊に目を向ける。
 永久の記憶。
 鮮やかに焼き付いた呂布の記憶と共に、懸命に励まそうと張遼を見上げるの姿が在る。
 の手は、温かだった。
 その手の温もりと同じような、温かな思いが溢れる。
 いつか礼を述べるその日まで、決して貴女を忘れまい。
 張遼は、固く誓った。
 いずれ会わずには居られぬと、子供のように請うていた。

  終

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